琉球では日常食の9割を占めたさつまいも

さつまいも400年の歴史と現代の科学(前篇)

2016.11.11(Fri)漆原 次郎

 その後、さつまいもは北上していく。1698(元禄11)年には、種子島にさつまいもが入った。薩摩国の島津家の家臣だった種子島久基(1664-1741)が琉球国の尚貞王(1646-1709)に依頼し、1箱分を寄贈された。家老を介して大瀬休左衛門(1621-1700)という82歳の農民に試作させると成功し、種子島にもさつまいもが普及した。

 九州本土へは、琉球国への伝来から約100年後の1705(宝永2)年に伝わった。薩摩国の山川岡児ケ水(今の指宿市内)の貧農で生まれた前田利右衛門(1670-1719?)の功績だ。利右衛門は、船乗りとして琉球へ渡ったとき、人々が“草の根”を食べているのを珍しく思い、その植物の実を密かに持ち帰って家の垣根で育ててみた。だが、花も実もつかない。失望して根こそぎ捨てようとしたところ、土の中からさつまいもの実が出てきたので喜び、繁殖を始めたという。

 他に、17世紀にはフィリピンから長崎にもさつまいもが伝わったとされる。その後、さつまいもは全国各地に飛び火するように広がっていった。

日本列島におけるさつまいものおもな伝播の経路と年代。資料によって年代が異なる場合がある。(いも類振興会編『サツマイモ事典』などをもとに筆者作成)
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青木昆陽以前にも関東で栽培の試み

 関東地方でさつまいもが普及したのは、江戸時代中期の蘭学者として知られる青木昆陽(1698-1769)の貢献が大きい。

青木昆陽の肖像画。「甘藷先生」ともよばれた。

 昆陽は京都で学に励んでいるとき、甘藷(かんしょ、さつまいもの別称)が、救荒作物だと知る。江戸に戻ると、江戸町奉行所の与力(指揮役)だった加藤枝直(1692-1785)の推挙もあり、大岡越前守(1677-1751)に気に入られる。

 幕府との関係を持った昆陽は「享保の大飢饉」翌年の1733(享保18)年、さつまいもが救荒作物として優れていることを説いた著書『蕃薯考』を徳川吉宗(1684-1751)に提出した。これが認められ、昆陽は翌1734(元文元)年、「薩摩芋御用掛」を拝命し、薩摩国のさつまいもを小石川薬園(今の小石川植物園)、相模国の茅ヶ崎村(茅ヶ崎市)、下総国の馬加村(千葉市花見川区幕張)、上総国の不動尊村(九十九里町)で試験栽培したのである。

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