李猛熙氏は慶尚南道生まれ。幼なじみに全斗煥(チョン・ドファン=1931年生)元大統領、慶北中学(現慶北高校)の同級生に盧泰愚(ノ・テウ=1932年生)元大統領らがいた。
卒業後、李猛熙氏は朝鮮戦争の混乱もあって、日本に渡ったという。
その後、1960年代にサムスングループが韓国を代表する財閥に成長すると父親を補佐しながら後継者としての経験を積む。
「サッカリン事件」で一時は後継者に
1967年、サムスングループの関連企業である韓国肥料工業でサッカリン原料の密輸が発覚し、李秉喆氏も捜査を受ける。世論の厳しい批判を浴びた李秉喆氏は、韓国肥料を政府に譲渡するとともに「経営者引退」を宣言する。
父親に代わって経営の指揮を執ったのが李猛熙氏だった。李猛熙氏は、次男である李昌熙(イ・チャンヒ=1933~1991年)氏とともに、父親が「引退」した後のサムスングループ経営にあたった。
この間、何があったのか。父親の李秉喆氏はまだ50代で完全な引退は考えていなかったようだ。長男に経営を任せたが、じっくり観察していた。グループ経営に問題が起きたと判断すると、3年後には「経営復帰」する。
しばらくは父親を長男と次男がサポートする体制だった。3男の李健熙氏は、サムスングループの放送・新聞部門で経営者としての経験を積んでいた。この頃までは、まだ長男が後継者だと周辺も思っていた。
そんな時に、大事件が起きる。
創業者を批判する「投書事件」
李秉喆氏が不正行為を働いているという「投書」が大統領府(青瓦台)に届いたのだ。不正蓄財を告発する内容だったという。
いったい誰が書いたのか。李秉喆氏は、李猛熙氏と李昌熙氏の2人だと考えた。のちに李猛熙氏は「弟(李昌熙氏)によるもので自分ではないが、父親は自分が書いたと思い込んだ」と語っている。真相は不明だが、父親の怒りは収まらなかった。
結局、長男と次男は経営から離れることになった。「投書」が直接の引き金だったが、李秉喆氏が2人の経営能力を評価しなかったとの見方も強い。