朝廷へ、江戸時代になってからは幕府へと、時代の権力者たちに献上されてきた氷。前篇『清少納言も賛美した夏の涼「氷」』で述べたように、江戸時代、氷はもっぱら「涼」を楽しむ贅沢品だった。それが食材を「冷やす」ための必需品へと変わっていくのは、氷が巷に出回るようになった明治時代からである。
日本の製氷の歴史を語るにあたり、欠かすことのできない人物がいる。その人物とは、幕末から明治を生きた中川嘉兵衛だ。
国産天然氷に執念を懸けた男
中川嘉兵衛は1817(文化14)年、三河国額田郡伊賀村(現在の愛知県岡崎市伊賀町)に生まれる。16歳のとき京都に出て、儒学者の巌垣松苗に入門し、漢学を学んだ。1859(安政6)年に横浜が開港すると、これからの時代を予見してか、すぐさま京都から江戸へ移住。品川にあったイギリス公使館で見習い料理人となる。そこでの人脈を通じ、嘉兵衛はヘボン式ローマ字の創始者として知られるジェームズ・C・ヘボン医師に出会い、食品衛生における氷の重要性を教わる。それがきっかけとなり、採氷事業へ乗り出す決意をしたのだ。
当時の日本では、天然氷をボストンから輸入していた。アメリカでは1805年、のちに「氷王」と呼ばれるフレデリック・チューダーが世界で初めて天然氷の採氷、蔵氷、販売事業を興して以来、氷の産出と輸出が盛んだった。この北米の氷が南アフリカの喜望峰を経て、はるばる横浜港まで運ばれていたのである。当然、値段は高くなり、庶民の手には届かない。そこでもっと安価に大量の氷を流通させるべく、嘉兵衛は国産の氷を産出しようと奮闘した。