国産ウイスキーづくりに情熱を燃やした
「マッサン」竹鶴政孝とリタの人生

セミナーで、香り立つ旨いハイボールのコツも伝授

2014.10.06(Mon)JBpress

リタとの出会い結婚、そして帰国、昭和15年ニッカウヰスキー誕生 

 竹鶴はスコットランドで出会ったリタとともに1920年に帰国し、紆余曲折を経て1923年に寿屋(現・サントリー)に10年契約で入社し、スコットランド式の蒸溜所を大阪の山崎に設立。サントリーウイスキー「白札」の発売までにこぎつけた。

スコットランドに気候風土が似た北海道余市に蒸溜所を建設(建設途中の風景)

 しかし、政孝の夢は、スコットランドと風土や気候が似ている北海道に本物のウイスキーをつくる蒸溜所を建て、ウイスキーづくりをすること。

 1934年に寿屋を円満退社すると北海道に渡り、加賀正太郎や芝川又四郎といった大阪商人らの出資も受け、「大日本果汁株式会社」を設立する。

 ウイスキーは蒸溜してすぐに商品化できないため、途中、会社が経営難に陥ったこともあったが、1940年、宿願のウイスキーが完成した。社名の「日」と「果」をとり、「ニッカウヰスキー」と命名。スコットランドへ渡ってから実に22年の歳月が流れていた。

 戦争や妻の死など数多の苦難に遭いながらも決して諦めない精神、当時の日本人の嗜好には合わないと言われながらもスコットランドのやり方を曲げなかった本物志向、自身の夢を実現させるためにさまざまな人との出会いやビジネスチャンスを生かす才覚。竹鶴政孝の人生から学ぶべきことは多々あるのだ。

100年かけて世界に通じるクオリティとなった『余市』 

 セミナー終了間際、「全米オープンテニスで錦織圭選手が準優勝しました。ベスト4進出が96年ぶり、決勝進出は日本人初の快挙と言われますが、世界に通じるものとなるには、100年という歳月を要するのだと思いました」と簑輪氏はしみじみ語った。

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