国産ウイスキーづくりに情熱を燃やした
「マッサン」竹鶴政孝とリタの人生

セミナーで、香り立つ旨いハイボールのコツも伝授

2014.10.06(Mon)JBpress

大正7年マッサン、ウイスキーの聖地スコットランドへ             国産ウイスキーのバイブル「竹鶴ノート」に記された真実とは

 ウイスキーについて学んだあとは、いよいよ竹鶴政孝の人生に触れていく。リタとの出会いや日本での暮らしぶりなどを中心に話が進むが、政孝の生きざまには、多くのビジネスマンの参考となる哲学が散りばめられている。

 広島の造り酒屋に生まれた政孝は大阪高等工業醸造科(現在の大阪大学)で醸造学を学ぶ。しかし、彼は日本酒よりも洋酒に興味を抱き、卒業後は摂津酒造という洋酒メーカーに入社。彼のウイスキー人生の起点である。

 「それまで国内でつくられていたウイスキーは海外から輸入されていたものの『模倣』に過ぎない、いわばニセモノでした。そこで、社長である阿部喜兵衛が政孝に命じたのです。本場スコットランドで本物の蒸溜を学んできなさい、と。1918年のことです」

日本のウイスキーづくりのバイブルとなった「竹鶴ノート」

 神戸港からカリフォルニアを経由する長旅の果てにたどりついた聖地スコットランドには何のツテもなく、各地の蒸溜所を訪ね歩くもなかなか働かせてもらえるチャンスを得られず、もどかしい日々を過ごした。

 しかし、縁あってようやくいくつかの蒸溜所で学べる機会を得て、技術と知識を詰め込んでいった。

 蒸溜所ではメモや撮影は禁止されていたが、竹鶴は白衣のポケットに紙とペンをしのばせ、指を定規のかわりにして蒸溜器や様々な機具の寸法を気づかれないように計測したという。こうしてまとめた2冊の研修報告書「竹鶴ノート」はウイスキーづくりの原点として、現在も余市蒸溜所に大切に保管されている。

 このノートにはウイスキーづくりの“いろは”はもちろんのこと、英国式の働き方など、会社経営の基盤となる文言も数多く記されている。「一般社員も効率よく働き、ベルと同時に帰り、家族と過ごし、週末は教養を高めるべし」

 当時「働け、働け」だった日本の企業に「よく働き、よく休め」と説き、月給制を採用するきっかけにもなったと言われている。従来の常識にとらわれず、外国のやり方であってもよき慣習は積極的に取り入れようとする政孝の柔軟な姿勢が垣間見られる。

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