国境の島、対馬。人口が3万4000人ほどのこの島に陸、海、空、すべての自衛隊の基地がある。自衛隊基地が3つとも揃っているのは範囲を都道府県単位に広げても北海道や沖縄など数えるほどしかないことを考えると、長崎県の一市町村である対馬がいかに重要な戦略拠点であるかが分かる。
国境の島、その歴史的背景
日本が国として対馬の守りを固めたのは、起源663年にまでさかのぼる。
660年、唐と新羅の連合軍に敗れて国を失った百済の人々の多くが友好関係にあった日本(倭)へと渡ってきた。その中には百済王の子孫もいた。
そして663年、百済王の太子が日本の支援を受けて国を再興しようと朝鮮へ進軍する。しかし、それを待ち構えていた唐と新羅の連合軍によって、白村江(はくすきのえ)で壊滅してしまう。
勢いに乗った新羅は日本に攻めてくるに違いない。そう思った日本は防人を置き対馬の守りを固め始める。
背景には百済から日本に亡命してきた人たちが盛んに唐と新羅に対する防備の重要性を説いたことも大きかったと言われている。
中大兄皇子は浅茅湾を一望できる要衝の地に日本最古の城の1つである金田城(かなたのき)を造った。
と同時に、遠く釜山を望める千俵蒔山の山頂に観測所を設置、狼煙を使って新羅軍の動向を朝廷にいち早く伝える情報システムを構築した。
千俵蒔山の山頂には現在、韓国展望台と呼ばれる観光施設が作られていて、晴れた日には釜山の街並みを望むことができる。また、眼下には航空自衛隊のレーダー基地があって、海峡を通る航空機を監視している。
白村江の戦いを契機に、それまで人の行き来が自由だった時代が終わりを告げ、以来、国家が国境を強く意識して人の往来を制限する時代が始まった。