デフレから脱却できない日本経済の原因はいくつもある。しかし、その中で最大のものは恐らく円高ではないだろうか。1985年9月22日、米ニューヨークのプラザホテルで開かれたG5(先進国5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)によって、円はドルに対して大幅に切り上げられた。
バブルとデフレを生んだ日銀の頑なな政策
深いデフレの淵に沈んでいる今に至るまで円高に悩まされている日本は、残念ながらこのときのくびきから脱し切れていないということだろう。
4月15日、「平成の鬼平」との異名を取った第26代日銀総裁、三重野康氏が亡くなった。
バブル経済潰しに躍起となった三重野氏だったが、強い引き締め策の副作用として日本はデフレ経済を甘受することとなったことは忘れてはならない事実だ。
当事の日本の有力な経済紙(誌)は、バブル経済の後遺症から三重野氏の政策を称える論調に支配されていた。
平成の鬼平という命名もそうだし、最大部数の経済誌は「世直しデフレ」という特集まで組んでいる。
しかし、バブル経済からの日本を振り返れば、日銀の頑なな政策が経済を健全な発展から阻害してきたと言えなくもない。
バブル経済の発端となったのは、プラザ合意以降の急激な円高による不況からの脱却を目指した超低金利政策だった。
三重野氏の前の澄田智日銀総裁が2.5%という超低金利(今となっては呼び名に違和感を覚えるが)政策を4年以上にわたって続けたため、円高不況からは早期に脱したものの、副作用としてバブル経済を引き起こした。
一方、澄田総裁の後を受けた三重野康総裁は、一転して急激な金融引き締めに走り、デフレ経済を引き起こすこととなった。