このところ毎週、大阪で仕事の予定が続いたのですが、そこで強く感じたのが「付加価値の創成」ということでした。が、一体なにでそれを感じたかというと「食」なんですね。「通天閣」で有名な大阪ミナミ「新世界」名物から、付加価値について考えてみたいと思うのです。
石山本願寺から大阪城へ
そもそも大阪ミナミ、天王寺の茶臼山エリアが「新世界」と呼ばれるようになったのはそんなに古いことではないようです。
もともと「茶臼山」は古墳か何かだったらしく、大阪中心部を背骨のように走る「上町台地」の中でひときわ高くなっているのが北の端の「(旧)石山」と南、天王寺近辺の茶臼山になります。
この北の「石山」が浄土真宗本願寺中興の祖、蓮如が隠居所としたのがきっかけで「石山本願寺」となるわけです。
ついで織田信長との「石山合戦」の末和議を結んで真宗が退去、本能寺で信長が亡くなったのち、豊臣秀吉が城に改めたのが「大阪城」。さらに秀吉が亡くなったあと、この大阪城の堀を埋めさせ、最終的に勝利を収めたのが徳川家康というわけです。
さて、この豊臣氏と家康が戦った大阪冬の陣で、家康が本陣を置いたのが、南にひときわ高く盛り上がっていた茶臼山なんですね。当時、どんな地形だったのか、大体のことが見えるような話です。
家康は大阪冬の陣で真田幸村らの決死の攻撃を受け命からがら逃げ出します。翌年の大阪夏の陣では、今度は真田が茶臼山に陣を張り、大阪の陣最大の戦闘(「茶臼山の戦い」)を繰り広げ、大将の幸村以下、壮絶な討ち死を遂げるのは「真田十勇士」の物語でも知られる通りです。
もっとも「猿飛佐助」を筆頭に真田十勇士が活躍する、現在知られる物語は大正時代に成立したものとのことです。
その原型となった「難波戦記」も江戸時代中期になってから成立したもの、つまり時の徳川政権が安定する以前、これを苦しめた仇敵ですから、十分に歴史として落ち着いてからあとの時代の創作ということになるのでしょう。
しかし「真田十勇士」というと格好良いものが「なんば戦記」というと、ちょっとイメージが違ってきます。なるほど、ミナミでの戦いだったというのはよく分かるわけですが。