世阿弥の「離れた目」と「当事者の目」

──世阿弥の「離見の見(りけんのけん)」は、現代で言うメタ認知とどう違いますか。

西平:大きく言えば「メタ認知」と理解してよいと思います。「守と破の対立」を包む「離」と同じ構図で、一種のメタ認知です。その代わり、重要なのは「自分を離れたところから見る」と同時に「自分の目で見る」という、その両方の目を併せ持つ点です。

 守破離は、しばしば離れたところから自分を客観的に見ると説明されるのですが、それは事柄の半分にすぎません。単に離れて客観的に見るのであれば「離見」です。

「離見の見」は、その「離見」に、もう一度「見」が加わる。つまり、客観的に見ることを経由した後に、それに重ねて、自分の肉眼で見る。あらためて、当事者意識に戻り、二重写しで見るというわけです。

 例えば、かくれんぼの鬼は、目を閉じることによって、逆に、周囲の動きをいつも以上に敏感に感じます。それに対して「離見の見」は目を閉じません。目を開けたまま、敏感になる。目を開けたまま、目を閉じた時と同じような敏感な感覚になる。つまり、視覚情報を取り入れながら、同時に視覚情報に囚われることなく、全感覚を全方位的に働かせるというわけです。

 今日、写真や動画によって自分を外から見ることができます。動画は「離見の見」にかなり近いと思います。その代わり、世阿弥が強調するのは、動画を見ながら、あたかも見ていないかのように動くということです。

 自分を対象として眺めない。当事者としての身体に戻る。正確には、「視覚対象となった自分」と「身体である自分」を、どちらも消すことなく、重ね合わせる。二重写しにするということです。

 ちなみに、デジタルネイティブの世代は、子どもの時から動画を見慣れていますから、私たちの世代より「離見の見」に近い感覚を身に付けやすいのかもしれません。

 学生にはよく「揺れる」と「ブレる」は違うと説明します。根っこがあると、しなやかに「揺れる」ことができる。根っこまでぐらつくと「ブレて」しまう。揺れながらブレない視点。それが「離見の見」の知恵と重なります。