守破離は弟子のためではなく師匠のため?
──学ぶ側は「自分はいま守なのか、破なのか、離なのか」を認識できるのでしょうか。
西平:すごく大切なポイントです。守破離は「師匠」のための教えであったように思います。守破離の思想は弟子が読んでもよく分かりません。弟子には「自分が守なのか、破なのか」という点は見えにくいですし、少なくとも守破離の思想を学んで稽古が上達するとは思えません。
逆に、稽古をひと巡りしてきた人が振り返って、「今なら分かる」と感じるようなものだと思います。自分が稽古していた時は「ただ同じこと」を繰り返しているように感じていたものが、今になって見ると、その意味が分かるということではないかと思います。
同じことを繰り返すことがいかに大切か、その意味はある程度、稽古した人間にしかわかりません。守破離の思想はそうした視点を整理し、問題の所在を示したのではないか、と考えています。迷いが生じる地点に注意を促すような、長いタイムスパンの中で、稽古を設計する知恵であったように思います。
今回、稽古の思想を読み漁りましたが、「俺は道を極めた」という語りは案外響かないものです。むしろ「うまく掴めない」という叫びの方が響いてきます。その「掴めなさ」を感じながら生きている人の苦悩の方が深く伝わってきました。