『信長公記』で描かれた桶狭間は雨の中の奇襲ではなかった?
もともとの『信長公記』には、どのように書かれているのか。
まず〈御敵今川義元は四万五千引卒しおけはさま山に人馬の休息在之〉とあるように、今川義元は4万5000もの兵を率いて〈おけはさま山〉で兵士や馬に休息を与えていた、という。今川軍が陣を置いた場所は「桶狭間山」、つまり、窪地ではなく、見晴らしの良い丘陵地帯だった。
また〈山際迄御人数被寄候処俄急雨石氷を投打様に〉とあり、山ぎわまで軍勢を寄せたときに、激しいにわか雨が降り出した。まるで石か氷を投げ打つようだった、とあることから、雹(ひょう)が降ったのではないかとも言われている。天候が急変したのは確かなようだ。
だが、『信長公記』ではそのあとに〈空晴るを御覧し信長鎗をおつ取て大音声を上て〉と続く。信長軍は晴れるのを待ってから、信長は槍を勢いよくつかみ、大声を上げたという。雨の中で襲撃したわけではなく、晴れるのを待ってから、戦闘を開始したことが分かる。
そして、信長軍の進軍ルートについては「中島より又御人数被出候」とあることから、最前線の中島砦から、正面攻撃するべく兵を動かしたのではないか──。これが従来の迂回奇襲説に代わって知られるようになった正面攻撃説だ。
信長軍の攻撃によって、どうなったか。〈三百騎計真丸になつて義元を囲み退けるか〉とあるように、今川軍は300騎が丸くなって大将の義元を囲んで守った。
だが、斬り合っているうちに義元を守る兵の数が減っていき、とうとう50騎ほどになると、〈信長下立て若武者共に先を争つき伏つき倒し〉、つまり、信長までが馬を降りて、若武者と同じように先を争うように、義元に襲いかかった。義元としても覚悟を決めるほかはなかっただろう。最終的には、信長の家臣・毛利新介(良勝)が、大将の義元を討つこととなった。
とはいえ、「桶狭間の戦い」には他にも説がいろいろとあり、奇襲攻撃説が完全に否定されたとも言えない。『信長公記』の内容が正しいとも限らないうえに、記述への解釈の仕方もまた研究者によって異なるからだ。
信長が名を馳せるきっかけとなった重要な戦いだが、「桶狭間の戦い」の実態については、依然として議論が続いている。