神戸で帰化
同年(明治27年)10月10日前後、ハーンとセツたちは、神戸に到着した。
長男・一雄、セツの養父母・稲垣金十郎とトミも一緒である。
ハーンは、神戸クロニクルの論説担当に就任した。
ところが、同年12月、ハーンの目は酷使が祟り、炎症を起こしてしまう。
すでに失われた左目に加え、右目にも失明の危機が迫ったため、翌明治28年(1895)1月30日、ハーンは神戸クロニクルを退社する。
その後は執筆活動に専念し、同年3月9日には、熊本および、九州各地の見聞、紀行、随筆が載せられた『東の国から』が、ホートン・ミフリン社から出版され、こちらも大変に話題になった。
同年7月頃、ハーンはセツを正式な妻とし、自分の死後は愛する家族に財産が確実に遺贈されるように、日本国籍を取得する決意を固めた。
翌明治29年(1896)2月10日、帰化手続きが完了し、ハーンは「小泉八雲」と改名(以後、小泉八雲と表記)している。
当時、現地の日本人と同棲した西洋人の中で、妻子のために帰化までした者は珍しかった。
小泉八雲の死
同年(明治29年)9月、小泉八雲は帝国大学文科大学の講師の辞令を受け、セツらと共に、東京に転居した。
明治30年(1897)2月15日には二男・巌が、明治32年(1899)12月20日には三男・清が誕生している。
明治36年(1903)には、八雲は東京帝国大学から解雇通知を受け取り、3月31日に講師を辞した。
同年9月10日には、長女・寿々子が誕生している。
翌明治37年(1904)、八雲は早稲田大学講師として招聘され、3月9日から出講した。
しかし、同年9月26日、八雲は心臓病により、セツに看取られて、急逝してしまう。
セツの手記『思ひ出の記』によれば、八雲に少しも苦しんだ様子はなく、口には少し笑みを含んでいたという。
セツは、「天命ならば致し方もありませんが、少しく長く看病をしたりして、愈々駄目とあきらめのつくまで、いてほしかったと思います。余りあっけのない死に方だと今に思われます」と述べている。
愛妻に看取られ、笑みを浮かべて旅立ったのなら、悪くない最期といえるのではないだろうか。
そして、夫・八雲のいないセツの人生がはじまる。