熊本へ
明治24年(1891)10月、ハーンのもとに、熊本の第五高等中学校(熊本大学の前身)で月給200円のよいポストが空いたという話が舞い込んだ。松江での月給の2倍である。
ハーンはこよなく松江を愛していたが、熊本へ転任する決意を固めた。
その理由は、松江の冬の厳しい寒さに耐えられないのと、セツの親族を含む大家族を扶養するためと、生まれ育った松江で「洋妾」と後ろ指をさされるセツを救うためでもあったという。
同年11月15日、ハーンは、セツと彼女の養父母・稲垣金十郎とトミを伴って(セツの実母・タエは、松江に残った)、松江を発ち、熊本へと向かった。見送りには、約200人が駆けつけたという。
『知られぬ日本の面影』
同年(明治24年)11月19日、ハーンは第五高等中学校の英語教師として、熊本に赴任した。
ハーンは3年間、契約通りに勤務することとなる。
明治26年(1893)には、長男・一雄が生まれた。
ハーンは松江ほど熊本を愛せなかったようだが、創作意欲は高まったようである。
明治27年(1894)9月にホートン・ミフリン社から出版された『知られぬ日本の面影』は評判を呼び、年内に三版を重ねた。
『知られぬ日本の面影』は、ハーンの日本に関する最初の著書で、彼の旅行記やルポルタージュの頂点に立つ作品である。
『知られぬ日本の面影』の書影 サラ・ワイマン・ホイットマン(1842-1904)、芸術家、装丁家。(ボストン公共図書館がFlickrにアップロード), CC BY 2.0, via Wikimedia Commons
3年間、契約通りに第五高等中学校で勤務したハーンは、同年10月6日、英字新聞社「神戸クロニクル社」へ転職するため、セツらともに熊本を後にした。