合理性に真正面から向き合い、そのうえで決断した「WBC参戦」

 ここから論点を一段引き上げて考えたい。山本のWBC参戦表明が米国で驚きをもって受け止められた理由は、単に「疲労困憊のエースが、なぜ出るのか」という表層的な疑問にとどまらない。そこにはメジャーリーグにおいて、この四半世紀で築き上げられてきた合理主義と効率至上主義の価値体系そのものを揺さぶる“違和感”が確かに存在している。

 前述のように、現在のMLBは、投手を「部品」「消耗品」として扱う世界である。イニングは細かく管理され、連投は極力避けられ、先発投手であっても5回、6回で役割を終えることが珍しくない。そこにあるのは冷酷なまでの最適化思想だ。球団は選手を「勝利装置の部品」として捉え、長期的な資産価値を最大化するために、リスクを徹底的に排除する。

 その文脈において、ポストシーズンで限界まで腕を振り、世界一の原動力となった投手が、さらに国を背負って投げるという選択は合理性の枠からはみ出している。だからこそ米国では、山本の行動が「理解不能」であると同時に「強烈な違和感」として受け止められた。

 だが、その違和感の正体は、必ずしも否定的なものではない。むしろ近年の米球界では「失われた何か」を思い起こさせる存在として、ヨシノブ・ヤマモトの存在があらためて語られ始めている。勝利のために投げる。チームのために身を削る。自らの限界と正面から向き合い、逃げない――。そうした価値観はデータと合理性の波の中で、確実に後景へと押しやられてきた。

 フリーマンが山本を重ねたハラデイ氏の存在も、「投手とは何か」という根源的な問いへの一つの答えだった。完投を厭わず、連投も辞さず、チームが必要とする場所に立ち続ける。その姿勢こそが今、山本に見出されているのである。

 メジャーリーガーの間で囁かれている「He’s a workhorse.」という言葉も、単なる体力の話ではない。肉体の持久力と同時に、精神の耐久力を含んだ評価だ。疲労やリスクを理由に距離を取ることが常態化した現代スポーツにおいて、山本の姿は異端であり、同時に眩しく映る。

 もちろん、現実は甘くない。過去には松坂やダルビッシュ、大谷といった名だたる投手が、WBC後に大きな代償を払ってきた。ドジャースが戦々恐々とするのも当然だ。山本の意思を尊重しつつ、出場ラウンドや登板条件に制約を設けようとしたとしても、それは合理主義の論理として極めて筋が通っている。

 それでも山本は、その合理性と真正面から向き合った上で、なお「投げる」という選択をした。そこにあるのは計算ではなく覚悟であり、契約条項では測れない信念だ。

 つまり、山本という存在はもはや、現代メジャーリーグに対する一種の問いかけなのである。勝利とは何か。チームとは何か。プロフェッショナルとは、どこまで責任を引き受ける存在なのか――。それらの問いは、野球という競技を超えて、効率と合理性を最優先してきた現代社会そのものにも向けられている。

 合理性の海の中で、あえて逆流する覚悟を選んだ男がいる。その姿に、米国が驚き、称賛し、戸惑っているという事実こそが“現代のサムライ”山本由伸の真の価値を雄弁に物語っているのではないだろうか。