国民食となった「肉まん」と定着しなかった「饅頭」

 こうして田中宏が肉まんなどの豚肉料理を提唱していた1910年代は、佐伯矩(さいきただす)が栄養学という学問分野を世界に先駆けて提唱していた時期であった。

 その努力は、1920年の内務省栄養研究所と翌年の栄養学会の設立へとつながっていく。

 日本で栄養学が興隆したのは、西洋人と比べた際の身体的な劣等感が根本的なきっかけになっており、田中も同様の観点から豚肉食を提唱していた。

 田中の豚肉料理が画期的だったのは、西洋人に対抗するために、西洋の食べ物ではなく、中国の食べ物を参照した点であった。

 この頃から中華料理ととんかつが普及し始めたことにより、すき焼きの牛肉の代用だけでなく、豚肉を使った独自の料理が食べられるようになった。

 しかし、実際には豚肉食は、牛肉食に代わるほどには普及しなかった。

 1920年代には、日本の植民地になった朝鮮半島から日本本国への朝鮮牛の移出が急増した。

 日本統治時代の朝鮮では、防疫体制が整備されて、畜産業が近代化した一方、畜牛の頭数の増加は日本に比べて停滞し、さらに牛の体高、体重が一貫して低下傾向にあった。

 朝鮮牛は、日本牛の増殖のための補給源にされていたといえる。

 そして日本人は、朝鮮牛の移入によって比較的安価に肉を食べられるようになった。
 
 なお、中国で主食として食べられる餡を入れない「饅頭(マントウ)」は、日本では現在に至るまで定着していない。

 しかし、四国地方の愛媛県松山市のみやげ品として知られる「労研饅頭(ろうけんまんとう)」が唯一それに当たる。

 労研饅頭は、岡山県倉敷市の労働科学研究所の初代所長・暉峻義等が、おもに労働者のための主食代用品として、1929年に開発した。

 それは、暉峻が満洲を旅行し、当地の苦力(クーリー・労働者)が主食として食べている饅頭をヒントにして、在日中国人コックの協力のもとでアレンジしたものだった。

 近代日本では饅頭も肉まんと同じように、国民の栄養改善のために導入が試みられていた。