さらに1916年1月から、田中式豚肉料理が何回か天皇の食膳に供された。それは、1917年には皇太子やそのほかの皇族、徳川家・島津家といった公侯爵の家の御膳にも上った。
田中式豚肉料理は、畜産業界でも注目された。
1919年3~5月にかけて、中央畜産会が上野の不忍池畔で畜産工藝博覧会を開催し、神奈川県の子安農園が会場前庭に田中式豚料理の売店を設けると、店内がつねに満員となるほどの好評を得た。
その売店の脇には、子安農園の「特製豚まんぢう」の試食店があり、ここが博覧会場内でもっとも活気あるエリアの一つになった。
さらに、畜産工藝博覧会では、農商務省が豚肉・羊肉料理の蝋細工模型を出品した。
これらは田中宏が考案し、小澤きん子が調理したものをもとに製作されていた。
日本ではこの頃から肉まんの本格的な普及が始まったと考えられ、1910年代が肉まんの導入期といえる。
東京帝国大学の田中宏が新聞に連載した豚肉料理のレシピは、日本に学び、働きに来ていた中国人の留学生やコックから学んだものであった。
先述のように、日清・日露戦争に勝利して台頭した日本帝国には多くの中国人留学生がやって来て、帝都・東京の神田・神保町地区には中国人留学生街ができていた。