トルコではオスマン文化のリバイバルが進んでいる(写真:ロイター/アフロ)
軍事大国として語られがちなオスマン帝国。しかし、そのステレオタイプの陰で、約600年にわたり豊かな美術文化を育んでいたのも事実である。その黄金期は16世紀にあり、19世紀には衰退し、姿を消した。そこには、イスラム文明と西洋文化の接触、社会構造の変化、さらには庶民文化が複雑に交錯する。『オスマン帝国の肖像 絵画で読む六〇〇年史』(KADOKAWA)を上梓した小笠原弘幸氏(九州大学大学院准教授)に、オスマン美術の変遷について話を聞いた。(聞き手:関瑶子、ライター&ビデオクリエイター)
──本書では、オスマン帝国の600年の歴史(1299年~1922年)を絵画という一本の軸を通して振り返っています。「絵画」というキーワードでオスマン帝国の歴史を解説しようと思ったきっかけについて教えてください。
小笠原弘幸氏(以下、小笠原):私の主要な研究テーマは、オスマン帝国の歴史叙述です。オスマン帝国の歴史書の中には、細密画が挿絵としてついているものが多くあります。
オスマン帝国の歴史書を研究するかたわら、たくさんの細密画に出会いました。細密画をはじめとするオスマン帝国の絵画は、帝国の歴史をさまざまに反映しています。絵画を切り口にすることで、新たなオスマン帝国の歴史観を示すことができるのではないかと考えたのです。
近世になるまで、オスマン帝国は強大な軍事力を誇っていました。そのため「野蛮な国家」という偏見に長い間晒されていましたが、実際には、オスマン帝国には絵画をはじめとする素晴らしい文化があります。イスラム王朝というと建築などに焦点が当たりがちですが、絵画という面においても非常に魅力的な世界があることを皆さんに知っていただければ嬉しいです。
西洋美術に傾倒した皇帝
──15世紀半ばの第7代スルタン(皇帝)のメフメト2世は、イタリアから芸術家を招聘するほど西洋美術に傾倒していたとあります。
小笠原:メフメト2世は早くに実母を亡くし、義理の母・マラ(マリア)に育てられました。彼女はセルビアの女王で、義理の息子のメフメト2世とは非常に良好な関係にあったようです。メフメト2世は、マラから西洋の文化や歴史などを教えてもらっていたと言われています。
15世紀は、オスマン帝国のエリート層に変化が起きた時代です。それまでは、生まれながらのイスラム教徒がオスマン帝国のエリート層を構成していたのですが、この時期、元キリスト教徒がイスラム教徒に改宗してスルタンや王子に仕えるケースが増えてきました。
メフメト2世の側近たちも、元キリスト教徒たちが非常に多かったようです。つまり、メフメト2世は西洋人の元キリスト教徒たちに囲まれて育ったということです。彼が即位した後に、西洋文化に興味を抱いたことも、彼の育った環境を考慮すると自然なことだったのかもしれません。

