英邁の誉れ高い藩主・吉通
人を作るのが理性であるなら、人を導くのは欲望である。
綱誠はかねてお福に、「もし自分が死んだら、おまえは奔放なので、地元の尾張で男を漁るとすぐに噂になるから、江戸屋敷にて目立たないようにするがよい」と言い残したという。
主人・綱誠の死後、お福が産んだ徳川吉通が、尾張藩第4代藩主となった。お福は落飾して本寿院と名乗った。
本寿院は尾張藩藩主・吉通の生母として、息子の威光を笠に着ながら、家中では絶大な発言権と権力を握った。
吉通は儒学、国学、神道に精通し、武術では尾張柳生新陰流9世を継承した文武ともに才覚にあふれた藩主であった。
江戸幕府6代将軍・徳川家宣が側近の新井白石に、自身の後継について、「余の跡は尾張の吉通殿に譲ってはどうか」と言わしめるほど英邁の誉れ高かったと伝わる。