禁断症状は限界を突破
江戸を騒がせた「江島生島事件」というのがある。
江戸城大奥の月光院付きの御年寄であった江島が山村座の人気歌舞伎役者・生島新五郎と密会、まぐわい事をした罪で罰せられた事件だ。
その生島新五郎の実弟で、市村座の歌舞伎役者若女方の巻頭・生島大吉を、本寿院が尾張藩藩邸に引っ張り込んで情交していたことが発覚。
藩主・吉通は幕命、「公儀より御内意」を受けたことにより、母・本寿院を四谷邸に蟄居謹慎せざるを得なくなった。
四谷邸では商人、芸人など町人の屋敷への出入りが厳しくチェックされることとなったのだが、それは漁色家の彼女にとって耐えがたいことでもあった。
ある日、息子・吉通が四谷屋敷に母・本寿院の様子をうかがうため訪れた。その夜、饗応を受けるのだが、吉通は食後急に吐血して悶死。不審な死に方から毒殺といわれている。享年25歳。
本寿院はその後、名古屋城下の御下(おした)屋敷に移されると、再び謹慎生活を送ることになる。
本能的欲望という感情は自分の力ではどうすることもできないものである。
性的飢餓による欲求不満が、孤独感やストレスに苛まれるのは、人との「つながりや親密さが断たれた」という、切り離された感覚が、その要因ともいわれている。
本寿院の性愛禁断症状が限界を突破した様子を、『鸚鵡籠中記』はこう綴っている。
「御乱髪なんどにて、御屋敷の大もみの木なんどへのおぼり玉ふ事ありといふ也」
(髪を乱しながら、木に登ると太枝に股を擦り合わせると、腰を震わせ、たまらなそうに喘ぎ声をあげながら独悦に耽っていた)
徳川宗春が尾張藩7代藩主に就任すると、本寿院は長かった蟄居謹慎生活から解放された。かつて絶倫だった精力は、既に終熄を迎えていた。