剛根の大小を見比べて
だが、尾張での評判は少し異なる。
尾張徳川家の家臣・朝日文左衛門重章によって書かれた元禄御畳奉行の日記『鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)』は藩主の行動や世上の風聞など、日常見聞きした事柄を書き綴ったものだ。
尾張藩においては「生類憐愍の令」は、取り締まりがほとんど行われていなかったことや、藩主・徳川吉通は大酒呑みと記されているほか、それに追従する重臣の批判などが記されている。
『鸚鵡籠中記』にはこう書かれている。
35歳の女盛りの本寿院は、綱誠の遺言どおり江戸尾張藩藩邸に住すると、彼女の行動を縛る者は、もういない。
凄絶な美貌の持ち主だったが、淫猥を異常に好む彼女は以降、好色獣の如く情慾を充たすことになる。
「貪婬(たんいん)絶倫」で性愛行為に貪欲、かつ精力絶倫だった。
「すぐれて淫奔にわたらせ給ふ」
(極めて淫猥な気質で、常に情慾状態にあり、数多の男性と性的関係にあらせられた)
「寺へ行きて御宿し、又は昼夜あやつり狂言にて諸町人役者等入込み、其の内御気に入れば誰によらず召して婬戯す」
(寺社詣でに参れば、優美な坊さんと一晩中房事に励み、芝居見物では色男の役者と情交に耽溺するなど、好意を抱いた者は、屋敷に呼び出して、「婬(みだら)」に「お戯(たわむれ)」あそばされた)
「本寿尼を汚す輩、役者、町人、寺僧および御中間らまで甚だ多し。軽き者は御金を拝領すること山の如し」
(優れた容貌の僧侶、精悍な顔立ちの役者、眉目秀麗で筋骨隆々の力士など、好みのタイプなら、体形や身分の上下に関係なく、性愛関係となった。また、屋敷に出入りする商人や尾張家に奉公する町人出身の従者で目鼻の整った容貌の者がいれば、部屋に招き入れ、満足すれば金一封を与えた)
お福は、今でいう「性依存症」だった。尾張藩士の安井家が記した『趨庭雑話(すうていざつわ)』には、こう記されている。
「はじめて江戸へ下りし者は、時にふれて御湯殿へ召され、女中に命じて裸になし、陰茎の大小を知り給ひ、大なればよろこばせ給ひより、交接し給ふことありき。また御湯殿にてもまま交合の巧拙を試み給ふ事ありしと也」
(尾張から、はじめて江戸の尾張藩邸に上った端正な顔立ちの青年藩士たちを、湯殿に呼ぶと、その逞しい裸体を鑑賞する。そして藩士のむっくりと目覚めた剛根の大小を見比べると、巨根な方を口に含み、大層お歓びになられた。そして楕円状の潤む女の佇まいに、堅い上ぞりをあてがうと、情交におけるさまざまな体位や、「性的技巧」をお試しになった。淫らに水音が浴室に響き渡った)
性的技巧とは性交渉において、自身の陶然だけでなく、相手に性の神秘と魅力をもたらすものあり、性感のハーモニーを合わせるために、その知識と努力の行使を要する。
利き所は発情させることであり、交接準備の態勢をいかに整えるかが肝心といえよう。
彼女は数々の気に入った相手と行為に及んでは、閃光のように花心を貫ぬく快感に陶酔した。
恍惚としている間、子宮は規則的に収縮を繰り返すことで、精子の受精獲得機能が高まる。つまり妊娠しやすくなる。
尾張徳川家に仕えた医師・山本道伝は、彼女の堕胎を担当していたが、本寿院は道伝とも、性的に濃密な関係にあった。