ラフカディオ・ハーンとの親交
西田千太郎がラフカディオ・ハーンにはじめて会ったのは、ハーンが松江に到着した、明治23年(1890)8月30日のことである。
この時、西田千太郎は教頭だった。
英語が堪能な西田千太郎は、通訳はもちろんのこと、教室の入口に英語で部屋名を書くなど細やかな気遣いをしたり、授業の助手を務めたりするなどして、日本語や日本の風習がわからないハーンの教員生活をサポートした。
職務上に限らず、西田千太郎はハーンの作家としての取材活動や私生活に至るまで、親身になって、支えている。
ハーンは西田千太郎を、「利口と、親切と、よく事を知る、少しも卑怯者の心ありません、私の悪い事、皆言ってくれます、本当の男の心、お世辞ありません、と可愛らしいの男です」と称し(小泉節子『思ひ出の記』)、心から信頼した。
2人は、お互いの家庭を頻繁に訪問し合ったり、出雲大社を参拝するなど、ともに松江内外の各地を訪れ、公私にわたって深く親交を重ねている。
一方、西田千太郎の体調は思わしくなかった。
同年10月26日に行なわれたハーンの着任第1回となる講演では、止血剤を服用して通訳を務めたが、途中で喀血している。
ハーンは西田千太郎の病に対し、「ただあの病気、如何に神様悪いですね——私立腹」(小泉節子『思ひ出の記』)と、なぜ西田千太郎のような善人が、悪い病気に罹るのかと悔しがった。