松江に帰任する
正教諭となった西田千太郎は、同年7月、兵庫県立姫路中学校の教諭に就任した。
同年の中学校令により姫路中学校は廃止となると、明治20年(1887)3月、西田千太郎は再び上京し、勉学に励んでいたが、同年6月、香川県の済々学館に教長として赴任している。
ところが、明治21年(1888)6月、西田千太郎はここを辞して、3度目の上京を果たす。
しかし、母校・島根県尋常中学校の有力教諭がみな転出するという事態に陥り、郷土出身の良い教師を迎えることに決まったため、西田千太郎は強く請われ、同年8月31日付で、同校の教諭として帰任した(池野誠『小泉八雲と松江 異色の文人に関する一論考』)。
島根県尋常中学校において、西田千太郎は、英語、歴史、地文、生理、植物、経済など、ほぼ全教科を教えている。
頭脳明晰にして博識で、人情に厚い誠実な人柄の西田千太郎は、学生からも深く信頼されていた。
その声望は校長を上回るほどであったといわれるが、西田千太郎は教頭心得となり、校長心得となったが、大学を出ていないため、校長にまでのぼりつめることはなかったという(国際文化編『国際関係研究10(1)』所収 萩原順子「小泉八雲と西田千太郎——「神々の国」との邂逅——」)。
西田千太郎はもともと体が弱かったうえに、若くして結核を患っており、島根県尋常中学校に勤めていた頃も、病との戦いの日々を送っていた。
そんななか、島根県尋常中学校に英語教師として赴任してきたラフカディオ・ハーンと、深い親交を結ぶことになる。