「人足寄場」設立の経緯はドラマでどう脚色された?

 そんな平蔵は「人足寄場(にんそくよせば)」の設立と維持に尽力したことで、歴史に名を刻むことになった。

 人足寄場とは、無宿(戸籍から外された者)や罪人を受け入れて職業訓練を行う施設のことをいう。『べらぼう』では、平蔵が人足寄場の設立へ動く経緯が描かれた。

「倹約による不景気から街の治安は乱れ、それは越中守様の政(まつりごと)が原因とささやかれましたが……」

 そんなナレーションが流れるが、松平定信は「かようなことははなから見越していた。私としてはむしろ望んでおった流れだ」と動じずに、まくしたてるようにこう言った。

「これは不景気により田沼病の者たちがあぶり出されてきた、ということ。ゆえに、ここで一つ、そやつらを放り込み、療治する寄場を作りたい。そこにてそやつらを、世の役に立つ真人間に鍛え直し、元百姓なら田畑に帰し、町人なら鉱山など人の足りぬところで働かせ、あるべき世の一歩とするのだ」

 平蔵が「それは素晴らしきお考え」と応じると、定信は食い気味に「それをそなたに任せたいと思っておる」と言い出した。長谷川は「え……恐れながら、それは火付盗賊改のお役目では……」と戸惑うも、またも食い気味に定信は言葉をかぶせてくる。

「市中の事情に通じ、ならず者たちの扱いにも長け、この役にもっとも適しているのはそなたと考えた」

 ここでナレ―ションによって、実は面倒な仕事であるため、いろんな人に断られていることが明かされる。平蔵が力不足を理由になお辞退しようとするが、定信はこう畳みかけてくる。

「確か町奉行は、そなたの父もなり得なかった役目だな。悲願であったとも聞く。見事、寄場を作り上げれば、考えぬでもない」

 実際に平蔵の父は、西の丸御書院番から小十人頭になった後に、先手弓頭を経て、明和8(1771)年に火付盗賊改加役に任ぜられ、翌年には本役となった。その年の2月に起きた「明和の大火」で、火付盗賊改加役として活躍。放火犯を捕まえるという功績を残して、京都町奉行に栄転するも、急死。江戸町奉行に就くことはなかった。

 父の死を受けて、27歳で家督を継いだ平蔵。父と同じように出世して火付盗賊改までになった今、町奉行になりたいという思いは強かったことだろう。定信は平蔵の一番の望みをくすぐり、大役を引き受けさせることに成功している。

 史実において、定信は自身の日記でこのときのことを、次のように記している。

〈志ある人に尋ねしに、盗賊改をつとめし長谷川何がしこゝろみんといふ〉
(「志ある者はおらぬか」と定信が尋ねたところ、宣以が「やってみましょう」と手を上げた)

 しかし、責任の大きさを思えば、即決できる仕事ではないだろう。実際には、ドラマのような展開があったのではないかと思わせるシーンとなった。