東京都墨田区の長谷川平蔵 遠山金四郎の屋敷跡 写真/フォトライブラリー

 歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。そのなかには、有能なリーダーもいれば、そうではない者もいました。彼らはなぜ成功あるいは失敗したのか?また、リーダーシップの秘訣とは何か?そういったことを日本史上の人物を事例にして考えていきたいと思います

松平定信の抜擢による異例の出世

 安永2年(1773)6月、長谷川平蔵宣以の父で京都西町奉行を務めていた宣雄は55歳で急死します。宣以は父について、妻子と共に江戸から京都に出ていました。が、父が急死した事もあり、再び江戸に戻ることになるのです。その時の宣以にまつわる逸話が残っています。

 宣以が奉行所を去るということで与力・同心らは見送りに出ました。その際、宣以は「各々方、堅固に御在勤あるべし。後年、長谷川平蔵は現代の英雄豪傑と人々に言われるであろう。各々方、御用のため江戸に参られた時は必ず屋敷に来られよ」と暇乞いしたといいます。

 宣以は28歳になっていましたが、何かを為していた訳ではありません。その「若造」から突然、前述の言葉が出たものだから見送りの一同は呆然としたことでしょう。宣以の心中には気負いがあったのではないでしょうか。安永2年9月、家督を継承した宣以ですが、小普請入(役職に付くまでの待機組)となります。

 その頃の宣以には芳しからぬ話が伝わっています。生来「闊達」であった宣以は、遊里に悪友と通い「不相応の事など致し」散財したというのです。遊廓通いの元手となったのは、父・宣雄が倹約してコツコツと貯めていた「金銀」でした。その「金銀」を宣以は使い果たしてしまったというのです。

 この辺りのことは大河ドラマ『べらぼう』でも描かれていました。これだけ聞くと宣以は単なる「馬鹿息子」ですが、当然、彼はそれだけで終わった人間ではありません。

 安永3年(1774)には西の丸書院番士、翌年には西の丸進物番、天明6年(1786)には先手弓頭(旗本の番方としては最上位)に昇進していくのです。この異例の出世は、松平武元や田沼意次という幕府高官(老中首座)の引き立てがあったからとされます。宣以は天明7年(1787)には火付盗賊改加役(助役)、翌年には火付盗賊改本役に就任しますが、これは新たに老中となった松平定信の抜擢があったとされているのです。

 天明7年に江戸で起きた大規模な打ちこわしの鎮圧に宣以が活躍したことが1つの理由とされます。宣以は当時、庶民の受けが良かったそうです。その評判を聞いて、定信も「平蔵ならば」と言うようになったとのこと。そうしたことで江戸の町々に住む人々は「平蔵様、平蔵様」と言い、宣以が火付盗賊改加役でいることを嬉しがったということです。

 それにしてもなぜ宣以は江戸の人々に人気があったのでしょう。次に紹介する逸話がその人気の要因かもしれません。