大企業の中で生きるということ
これに対して、それほどお金にも事業にも欲がある訳ではなく、とにかく安定した生活が送りたい、そのためにできるだけ名の知れた大きな組織に身を寄せたいという、いわば「寄らば大樹の陰」の人もたくさんいます。むしろそれの方が圧倒的多数かも知れません。
若いうちに安定した生活を求めて大きな組織に依存してしまうと、毎月の積立預金のような地道な蓄財はできても、なかなか「事業や投資の元手を作って投資する」という気にはなりません。
安心・安全を手に入れ、一方で社会的な体裁を気にするようになると、爪に火をともすようなギリギリの生活をして、できるだけ多くの元手をできるだけ早く作るというような発想にはなりにくいです。
そして何より、大組織に勤めていると、この「時間」という人生で最も貴重な資源の大切さを見過ごしたまま、時間を無為に費やしてしまう恐れがあるということです。接待だ、飲み会だ、ゴルフだ、と組織人にとって欠かせない「仕事」は幾らでもありますから。
もちろん、大組織に勤め、その期間を来るべき本番に備えた「訓練期間」と位置付ける考え方もあると思います。そこで事業の基礎や社会のルールを身に付けるという具合に。それはそれで一つの戦略だと思いますので、私としては、一概に組織に身を寄せることを否定するものでもありません。
プロフェッショナルとして生きること
そして、もう一つがプロフェッショナルという生き方です。例えば、学者、医者、弁護士や会計士などの士業、アーティスト、スポーツ選手といった、言わば「手に職を持った」専門家です。
こうしたプロフェッショナルな人たちは、王侯貴族が存在した封建社会では、そうした支配階級に仕え、その庇護を受けることで生計を立ててきました。そして、身分制社会が崩壊し、資本主義の勃興と共に市民社会に移行してからは、資本家をスポンサーにするなど、その独自の立ち位置を活かして生き延びてきました。
彼らは、労働から生まれる余剰価値を吸い上げる訳ではないという意味で資本家ではありませんが、資本家から搾取される訳ではありませんから、単純な「労働階級(プロレタリアート)」とも呼べません。
マルクスはこのようなクラスを「中間階級(プチ・ブルジョワジー)」 の一つと捉えました。こうした生き方の欠点は、歳を取ってくると、若い頃のようには働けなくなるということです。
同様に、身体が元手ですから、大病を患うと思ったようには働けなくなりますので、健康には十分過ぎるほど注意を払う必要があります。
以上を整理すると、資本主義の中での生き方、すなわち「勝ち筋」には、幾つかのパターンが見えてきます。本記事の後編では、こうして見えてきた「勝ち筋」についてさらに解説します。
【後編を読む】
果てしない競争という「無間地獄」に落ちないために 資本主義社会で「善く生きる」ために見失ってはいけないこと
