資本ゲームのメインプレイヤーになるには

 資本のゲームが行われる場におけるメインプレーヤーは資本家です。

 資本家には企業家(起業家)と投資家の二種類がいて、それぞれが事業という切り口、投資という切り口でゲームに参加しています。

 古典派経済学でいう生産の三要素は、土地、資本、労働です。この内、土地と資本は資本家が所有していて、労働者が提供できるのは労働だけです。しかし、余剰価値を全て資本家に吸い取られてしまう労働者は、残念ながらこのゲームのメインプレーヤーにはなれません。

 これを別の形で歴史データを使って説明したのが、『21世紀の資本』のトマ・ピケティです。彼が明らかにしたのは、長期的に見ると、r(資本収益率)> g(経済成長率)という不等式が成り立つ、つまり資本収益率が経済成長率を上回るため、資本家は労働者よりも速く富を蓄積し、年々不平等が拡大していくという「不都合な真実」だったのです。

 ですから、このゲームにメインプレーヤーとして参加するためには、企業のオーナー一族に生まれるような例外を除いて、何とかして企業家か投資家にならなければなりません。

昭和や平成の時代の「成功者」の動機

 私が生まれ育った昭和の時代には、綺麗事はともかくとして、自分が置かれた貧しい環境から抜け出したい、とにかくお金持ちになりたいというハングリーな若者がたくさんいました。

 例えば、「経営の神様」と呼ばれた松下幸之助や稲盛和夫なども、その伝記や語録を読むと、最初から高邁な志があったというよりは、むしろ生活苦や病苦、学歴へのコンプレックスなどから事業を立ち上げ、人生を生き抜く中で徐々に高い志を形成していったことが分かります。

 ただ、そうしたマズローの欲求段階を着実に登っていく人はそれほど多くはないように思います。起業家の中には、お金持ちになること自体がゴールで、ただあり余るお金を浪費することで自尊心を「埋め合わせる」だけ──アドラー心理学の概念を借りれば、劣等感を埋め合わせる「補償」(劣等感を補うための行動傾向)の段階にとどまるだけの人も多いように感じます。

 つまり、一旦、贅沢できるお金が手に入ってしまうと、努力するモチベーションを失い、豪邸、高級車、高いお酒、異性といった、ソースタイン・ヴェブレンが『有閑階級の理論』 の中で言った「顕示的消費」の人生で終わってしまう人が多かったということです。

 他方で、銀のスプーンをくわえて生まれた、元々裕福な事業家の中には、お金の先にあるそれを超える何かを実現するためにもっとお金が欲しいという人もいます。このような人は、個人の贅沢のためではなく、その旺盛な事業意欲を満たすために、いくらでもお金が欲しいということです。

 私がかつて仕えた森ビルの故森稔会長は、自分自身の資産形成には驚くほど無関心でしたが、都市開発のための事業資金はいくらでも欲しがったという意味で、お金にはとてもハングリーな人でした。

 これが、戦後のバブルが膨れ上がり、そして破裂していった中で私が見てきた、昭和から平成にかけての世の中の姿です。