運命の出会いの予感

 セツは養家・稲垣家にくわえ、生家である小泉家も支えるために尽力したが、もはやセツの収入では、どうにもならないような窮状に陥っていた。

 それでもセツは、4人の親たちを見捨てる気はなかった。

 明治23年(1890)から明治24年(1891)にかけて松江は大寒波に見舞われ、セツたち家族は、粗末な家で、寒さに震えていた。

 凍死も頭をよぎるような寒さの中、セツはある決意を固める。

 外国人教師の住み込み女中の仕事を、引き受けることにしたのだ。

 この仕事を受けるのに、セツは大きな抵抗を感じていた。

 当時、外国人の住み込み女中となれば、「洋妾(ラシャメン)」と非難される可能性も否定できなかったからだ。

 だが、セツは家族を養うために、「ラフカディオ・ハーン」という名の外国人教師の住み込み女中となる道を選ぶ。

 ラフカディオ・ハーンが、「小泉八雲」と改名するのは、明治29年(1896)のことである。