「士族の商法」

 セツは稲垣家で大切にされ、健やかに育っていった。

 明治9年(1876)、8歳の年には、内中原小学校に通いはじめている。

 学校が大好きなうえに、成績も優秀だったセツは、小学校上等教科へ進学を熱望していた。

 しかし、それは叶わなかった。稲垣家が没落を極めたからだ。

 明治初期に、特権を失った士族が慣れない商売に手を出して失敗することを、「士族の商法」、あるいは「武士の商法」という。

 現在において士族の商法は、「事業の失敗」の代名詞である。

 当時、事業を興した士族たちの大半が、あっという間に資金はもちろん、家さえも失っている。

 セツの養父・稲垣金十郎も例外ではなく、家禄奉還後に事業を立ち上げるが失敗。

 負債を背負い、稲垣家はセツが内中原小学校に入学した年に、城下町の西外れに位置する中原町への転居を余儀なくされた。

 しかも、養父・金十郎も、養祖父・稲垣万右衛門も働こうとしない。

 稲垣家は、養母・トミが縫い物をして得る、僅かな収入だけが頼りだった。

 ゆえに、進学などとてもできる状況ではなく、セツの学校生活は、義務教育である小学校下等教科を卒業した時点で終了となる。

 卒業後、セツは稲垣家を支えるため、実父・小泉湊が家禄奉還後に興した織物工場で働きはじめた。

 また小泉家に出入りし、生け花や茶の湯、謡曲や鼓など、良家の子女としての嗜みを習得している。

 これは後に、役に立つことになる。