異常な過重労働は江戸の女郎屋だけ
とはいえ、これは遊女の怠慢や不誠実ではない。責任はダブルブッキングをおこなう女郎屋にあった。売り上げをのばすため、遊女に過重労働を強いていたことに他ならない。

図2は、廻しで遊女が来ないのに怒った客が、若い者を呼びつけて抗議しているところである。
若い者は口では謝り、なだめながら内心、「この野暮な田舎侍が」と小馬鹿にしているに違いない。だが、武士は金を払っているのだ。怒るのは当然ではなかろうか。
紀州藩の医師が江戸の見聞を記した『江戸自慢』(幕末期)に、廻しについて——
娼婦(おやま)ハ廻しと言事あり、一人の女郎ニて一夜ニ客三四人も引受、彼方(かなた)より此方(こなた)、此方より彼方と順々廻り、乗せて下ろして又乗せて、渡し舟の如く……
——と、あきれ、揶揄している。というのは、京都や大坂など上方の女郎屋には、廻しはなかったからである。江戸が異常だったのだ。
春本『旅枕五十三次』(恋川笑山、嘉永年間)は、品川(東京都品川区)から三条大橋(京都市東山区)までの東海道の宿場の性風俗を描いたもので、とくに飯盛女(宿場女郎)について詳細に述べている。
では、江戸を出発して京都に向かおう。一番目の宿場である品川宿は当然、廻しがあった。ところが、三番目の神奈川宿(横浜市神奈川区)について——
この所は廻しなしなれば、朝まで抱きずめ、入れずめにしようとままなり。
——とあり、春本だけに表現は露骨だが、廻しはなかった。
四番目の保土谷宿(横浜市保土ヶ谷区)も、五番目の戸塚宿(横浜市戸塚区)も廻しはなかった。ところが、七番目の平塚宿(神奈川県平塚市)は「外廻し」があった。廻しはあくまで女郎屋内のダブルブッキングだが、外廻しは女郎屋間のダブルブッキングである。なんとも、すさまじい。
十二番目の沼津宿(静岡県沼津市)も廻しがあった。だが、十三番目の原宿(沼津市)からは、廻しがあるという記述はない。現在の静岡県のあたりまで来て、ようやく江戸文化圏から脱したと言おうか。江戸の悪弊がなくなったと言おうか。
繰り返しになるが、上方の性風俗の方が正常だった。廻しが常態化していた江戸の性風俗の方が異常だったのである。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)