「美空ひばり」は昭和の終焉と重ねたが

「偉人の訃報は、社会面の1行目で紙面の価値が決まる。美空ひばりさんの訃報記事で、朝日新聞は『ひばりが昭和とともに逝った』と書いた。昭和の象徴としてとらえた端的な一文だった。スポーツ記者を目指すなら、長嶋さんの訃報はいつも意識していなければならない。日本中がプロ野球、巨人一色だった時代の象徴的な人物だが、野球だけで論じることはできないだろう」

 筆者が地方紙に入社して間もない2001年、当時すでに50代だった上司からこう言われたことを思い出す。長嶋氏の訃報に際し、美空ひばりさんが亡くなった1989年(平成元年)6月24日の朝日新聞の過去記事を検索した。同日の夕刊社会面の書き出しはやや違ったものの、「歌謡界の『昭和』も終わった」と時代を重ね合わせた書きっぷりだった。

 2001年当時の長嶋氏は、まだ巨人の監督を退いたばかりだった。

 1958年に東京六大学記録の通算8本塁打の実績をひっさげて巨人へ入団。1年目から打率3割をマークし、29本塁打、92打点で本塁打、打点の二冠を獲得して新人王に輝いた。

 翌59年には「天覧試合」で阪神・村山実投手から劇的なサヨナラ本塁打を放ち、プロ野球を国民的娯楽へと押し上げた。巨人のV9時代を支え通算成績は2186試合に出場して打率0.305、2471安打、444本塁打、1522打点をマークし、5度のMVPをはじめ、6度の首位打者、2度の本塁打王、5度の打点王。記録にも記憶にも鮮明な17年間の現役生活だった。2度目の監督に復帰した93年は、プロサッカーのJリーグ開幕元年でもあったが、長嶋人気がプロ野球離れを阻止した。