日本に「難民」、はじまりは「ボートピープル」
日本で初めて「難民」が社会を揺るがせたのは、ベトナム戦争終結に伴うボートピープルの発生でしょう。
ベトナム戦争は1975年、北ベトナムの勝利で終わり、米国が支援していた南ベトナムは崩壊しました。南北ベトナムの統一により、全土が社会主義化すると懸念した南ベトナムの一部の人々は大型のボートに乗って国外脱出を図ります。これと前後して、ラオスとカンボジアでも政治体制が変わり、新体制に馴染めない人々が国を捨てました。ベトナムを含むこれら3カ国の「インドシナ難民」の発生です。
ボートピープルが最初に日本に漂着したのは、1975年5月でした。そして、日本沿岸で漂流しているところを貨物船に救助されるなどして、難民は急増します。日本外務省によると、1975年に9隻・126人だったボートピープルは、1976年に11隻・247人、1977年には25隻・833人に。その後、1982年までは毎年1000人を超す状態が続きました。

日本政府は当初、人道的見地からボート・ピープルの一時的な滞在だけを認めていました。ところが、インドシナ難民の流出が止まらず、東南アジアの各国で難民の漂着が増大するにつれ、日本でも難民の定住を受け入れるべきだとの国際世論が高まっていきます。
そして、政府は1978年に政策を変更し、ベトナム難民の定住を認める方針を決定しました。さらに、定住許可はラオス難民とカンボジア難民へも拡大。最終的には2005年までに1万1000人余りのインドシナ難民が日本に定住しました。
インドシナ難民は、日本の難民政策を大きく変えました。1951年に採択された難民条約についても日本は長く態度を保留していましたが、ボートピープルの急増を受け、1981年に加盟。これに伴って、従来の出入国管理法令を改正し、新たに難民認定制度を導入するとともに、法律の名称も「出入国管理及び難民認定法(入管法)」に変更しました。