十八歳の若さで従五位下に

 さて、有貞は天長四年(八二七)の生まれ。右大臣三守の七男であった。母は飯高弟光(いいたかのおとみつ)の女(むすめ)。飯高氏というのは伊勢国の飯高郡を地盤とする地方豪族で、采女か何らかの女官として出仕していたのであろう。当然、嫡妻ではなかった。なお、嫡妻は橘清友(たちばなのきよとも)の女である安万子(あまこ)で、皇后嘉智子の姉である。三守の長男有統を産んでいる。

 有貞は、異母姉の貞子が仁明天皇の女御であったことから、幼少時から天皇に近侍し、その寵幸を蒙った。承和十一年(八四四)に十八歳の若さで従五位下に叙爵され、丹波介に任じられた。これは遥任といって、給料(公廨)のみ受け取るという優遇措置である。

 このまま出世を始めるかと思いきや、翌承和十二年(八四五)に仁明天皇の更衣の三国氏(名は不明)との密通を疑われて、常陸権介に左遷されてしまった。この年、未だ数えで十九歳。よほど早熟だったのか、仁明の寵幸に思い上がったのか、それとも生母と同じ地方豪族(越前国)出身の三国氏に惹かれるところがあったのであろうか。

 文徳天皇の時代になると、過ちも若気の至りということか赦され、仁寿二年(八五二)に縫殿頭に任じられて復帰し、斉衡三年(八五六)に右兵衛佐、斉衡四年(八五七)に左兵衛佐、天安二年(八五八)に右近衛少将に任じられるなど武官を歴任し、従五位上に昇叙された。すでに有貞は三十八歳に達していた。

 清和天皇の時代になっても、引き続いて右近衛少将を務める一方、伊勢権介・阿波権介・因幡守・讃岐権介と地方官も兼任した。貞観六年(八六四)には正五位下に昇叙されている。このあたりの天皇は、外甥の成康親王とは異なって、藤原良房や基経(もとつね)を外戚としていたが、もはや南家の有貞など、政敵とは見なされていなかったのであろう。

 有貞は貞観八年(八六六)に従四位下に叙されて備中守に任じられて地方官となった。有貞にとって、これがはじめての受領であった。貞観十年(八六八)には近江権守に遷任されている。

 そして貞観十五年(八七三)に卒去した。享年四十七歳であった。何とも残念な生涯であったけれども、卒伝の最後に記されている人物評が、わずかに心を慰めてくれる。「有貞は権貴の生まれであったがそれを誇ることはなく、もしもその意に逆らう人がいても、未だ必ずしもその人を避けることはなかった」というものである。

 本来なら藤原氏の嫡流の門流に生まれ、しかも父は大臣、姉は天皇の女御で皇子を産んでいるとなると、きわめて「権貴の生まれ」であったと言えるにもかかわらず、微官に甘んじている現状を嘆きたくなるものであろうが、みずからを誇ることはなく、他人に優しく接していたというのであるから、なかなかできることではない。

 内心には大きな鬱屈が存在していたと考えるべきか、はたまた生来の坊っちゃんで、そんな思いを抱くこともなかったのであろうか。いずれにしても、屈折した人物と接するのは気詰まりなものであるが、有貞と接する人は爽やかな気分になったことであろう。

 なお、有貞は紀名虎(きのなとら)の女で文徳天皇の更衣として第一皇子惟喬(これたか)親王を産んだ静子(せいし)の姉妹を嫡妻としており(名虎や静子や惟喬も、皇位から遠い代表である)、忠行(ただゆき)が生まれていたが、これも若狭守で終わった。

 他に『尊卑分脈』によると何人かの女性が忠門(ただかど)・経邦(つねくに)・清邦(きよくに)・忠相(ただすけ)・長福(ながふく)を産んでいるが、忠門が丹後守、経邦が武蔵守、清邦が甲斐守で終わっており、忠相と長福は従五位下という位階しか伝わっていない。

 

『平安貴族列伝』倉本一宏・著 日本ビジネスプレス(SYNCHRONOUS BOOKS)