京都御所 写真/アフロ

(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。この連載では藤原氏などの有名貴族からあまり知られていない人物まで、興味深い人物に関する薨卒伝を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像を紹介します。今回は『日本三代実録』より、藤原南家最後の大臣、三守の七男である藤原有貞です。

*この連載(『日本後紀』『続日本後紀』所載分​)をまとめた書籍『平安貴族列伝』が発売中です。​

式家、北家の勢威に圧された南家

 藤原南家の官人を取り上げるのも、三守(みもり)以来であろうか。『日本三代実録』巻二十三の貞観十五年(八七三)三月二十六日庚寅条は、三守の七男である有貞(ありさだ)の卒伝を載せている。

前近江権守従四位下藤原朝臣有貞が卒去した。有貞は、右大臣贈従一位(藤原)三守朝臣の第七子である。年が童であった時、仁明(にんみょう)天皇に侍奉した。姉は女御〈(藤原)貞子[ていし]〉であった。そこでその寵幸を蒙った。弱冠の年(二十歳)に及び、承和(じょうわ)十一年、従五位下を授けられ、丹波介に拝任されたが、任地に赴かなかった。承和十二年、私に後宮の寵姫(三国[みくに]氏)に通じたことを疑われ、左遷されて常陸権介となった。仁寿(にんじゅ)二年、縫殿頭となった。斉衡三年、遷任されて右兵衛佐となった。斉衡(さいこう)四年、左兵衛佐に遷任された。天安(てんあん)二年、従五位上を加叙され、右近衛少将に遷任された。未だ幾くもなく、伊勢権介となった。貞観六年、正五位下に授され、貞観七年、讃岐権介となった。少将は元のとおりであった。貞観八年、従四位下に進叙され、備中守となった。貞観十年、近江権守となった。卒去した時、行年は四十七歳。有貞は権貴の生まれであったがそれを誇ることはなく、もしもその意に逆らう人がいても、未だ必ずしもその人を避けることはなかった。

 藤原氏の嫡流であった南家も、式家、次いで北家の勢威に圧されて、その地位は徐々に低下していった。特に天皇とのミウチ関係の構築に、大きく後れを取っていたことによるものである(これは天皇家の側の選択かもしれないが)。有貞の父である三守が、南家出身の最後の大臣となったが、その次の世代となると、二男の仲統(なかむね)が参議に上ったものの、一男の有統(ありむね)は侍従で終わっており、三男の有方(ありかた)は官位不明、四、五、六男は名前すら不明で、七男の有貞が近江権守となる。

 有統男の諸葛(もろくず)は中納言、その子の玄上(はるうら)は参議、有方の子の直行は参議に上ってはいるものの、巨勢麻呂(こせまろ)流南家の没落は明らかであった(北家の嫡流以外は、いずれも同じであったが)。

 仁明天皇には、六人の女御と二人の更衣、それに五人の宮人と一人の女嬬から、十四人の皇子が生まれているが、藤原順子(じゅんし)所生の第一皇子道康(みちやす)親王が承和九年(八四二)の承和の変の後、嫡子として立太子し、嘉祥(かしょう)三年(八五〇)に仁明の譲位によって践祚した(文徳[もんとく]天皇)。すでに東宮時代に良房(よしふさ)の女の明子(めいし)が入侍しており、践祚の四日後に惟仁(これひと)親王(後の清和[せいわ]天皇)が生まれるなど、天皇家嫡流としての地歩を確実なものとしていた。仁明の后妃には、渡来系の山口(やまぐち)氏、地方豪族の三国氏、氏姓不明と、出自の低い者が多かったが、その中で、紀伊守藤原総継(ふさつぐ)の女である沢子(たくし)と、右大臣三守の女である貞子(ていし)、それに順子の三人のみが、藤原氏出身であった。ただし貞子は南家、沢子は北家ながら魚名(うおな)流と、とても順子に比肩できるものではなかった。

 なお、沢子は第二皇子宗康(むねやす)親王・第三皇子時康(ときやす)親王(後の光孝[こうこう]天皇)・第四皇子人康(さねやす)親王、貞子は第八皇子成康(なりやす)親王を産んでいる。南家の三守としても、貞子と成康親王に期待していたことであろうが、外戚の勢威や誕生順から見て、順子と道康親王にかなうはずはなかった。

制作/アトリエ・プラン
拡大画像表示

 成康親王は、堂々とした体躯で、幼少時から成人のような志を持っていたので、仁明天皇から寵愛されたが、仁明が崩御した三年後、疱瘡で死去した。十八歳。これで南家の後宮政策は終焉を迎えたことになる。