藤原南家の官人を取り上げるのも、三守(みもり)以来であろうか。『日本三代実録』巻二十三の貞観十五年(八七三)三月二十六日庚寅条は、三守の七男である有貞(ありさだ)の卒伝を載せている。 藤原氏の嫡流であった南家も、式家、次いで北家の勢威に圧されて、その地位は徐々に低下していった。特に天皇とのミウチ関係の構築に、大きく後れを取っていたことによるものである(これは天皇家の側の選択かもしれないが)。有貞の父である三守が、南家出身の最後の大臣となったが、その次の世代となると、二男の仲統(なかむね)が参議に上ったものの、一男の有統(ありむね)は侍従で終わっており、三男の有方(ありかた)は官位不明、四、五、