「おまいう」の風潮と停戦への道のり
西側が返り血を浴びる類の制裁はその解除に向かうかもしれないが、少なくともロシアが占領しているウクライナ領の帰属が最終的に決まるまでは、ロシアの軍事力に貢献しかねない技術や製品の取引は、その再開を欧州のみならず米国も拒むだろう。
ソ連時代のCOCOM(対共産圏輸出統制委員会)規制の再来である。
また、疲弊し破壊されたウクライナ国土の再建に当たっては、必要とされる資金として、ロシアがどう反対しようと西側で凍結されているロシアの資金は当面返還されることなく、様々な形を通じて援助の名目でウクライナに流し込まれることになるだろう。
以上が現時点で考えられる予測である。
予測はしょせん予測でしかないが、それが、この紛争が始まった3年近く前にこのコラムで書いた内容(「“米国の罠に嵌った”ロシアが今後背負う十字架 『窮鼠猫を嚙む』最悪の事態に発展の可能性も」)とさほど変わらないことにいささか呆れている。
これから先、その幾分かでも現実化するなら、多くの人命が犠牲となった過去3年近くという時間は一体何だったのかを思わざるを得ない。
開戦から長らく、停戦への主張はこのコラムも含めて全くの少数派だった。
多くは、国際法蹂躙の咎は絶対に許容できず、ロシア討つべし、であり、それがメディアでも論評でも「常識」となり、その上で状況・戦況分析が進められてきた。
そうした言わば「正義論」の前提には、ロシアを敗北させ得る、という見通しが明示・暗黙を問わずに置かれていたようだ。
2022年にロシア軍が攻め込んだキーウ近郊やハリキウ州から撤退したことが、多くの論者に「弱いロシア軍」という思いを植え付けてしまったことも影響していよう。
今問われるのは、そのような、断固戦え、という見方が客観的な事実や分析に支えられたものだったのかである。
それは、さよう論じた面々がどこまでロシアとウクライナの意図なり国力なりを見ていたのか、の知見に関わってくる問題でもある。
ウクライナの抗戦の大義名分が国際正義や、世界の自由と民主主義を守るため、とされたことに、なぜ途中から世界の支持が萎えて行ったのか。
それを考えると、11月の米大統領選で民主党とK.ハリスが大敗を喫したことや、予想外の結果となった兵庫県知事再選挙での「オールド・メディア」に似通うものを感じる。
ポリティカル・コレクトネスを振り回し、それに賛同しない向きを侮蔑する権力エリートたちとそれに協賛する主流メディア、寄って集って1人の容疑者を私刑の餌食に祭り上げんばかりのメディア。
SNSに集まる人々はそこに胡散臭さ、いや悪臭すらを感じ取ったのではないか。
ロシアも、中国も、力を増している欧州の右派も、そしてグローバル・サウス諸国も、理想論での自由や民主主義そのものを否定はしていない。
それでも彼らが欧米やウクライナへの同調意欲を失ったのは、いわゆる「おまいう」からなのだろう。
正義論はごもっとも、だがそれを振り回す連中に対して、「お前にそんなこと言う資格があるのか」を突き付けたということなのだ。