1984年11月25日、第4回ジャパンカップ、外国代表馬を抑えて鮮やかに逃げ切り日本馬初優勝を果たしたカツラギエース(右) 写真/共同通信社

(堀井 六郎:昭和歌謡研究家)

昭和歌謡研究家・堀井六郎氏はスポーツライターとしての顔もあります。とくに競馬は1970年から今日まで、名馬の名勝負を見つめ続けてきました。堀井氏が語る名馬伝説の連載です。

日本初の国際レース「ジャパンカップ」屈辱の日々

 今年も11月の最終日曜日、東京・府中の東京競馬場に於いて「ジャパンカップ」が開催され、武豊騎乗の日本馬ドウデュースが栄冠を勝ち取りました。騎乗していた武豊騎手は、これでジャパンカップ5勝目となりました。すばらしいですね。

 早いものでこのジャパンカップも今年が第44回目の開催に当たりますが、日本馬の優勝は2006年の第26回ディープインパクト以来19年連続となりました。

 今回出走した14頭のうち、海外馬はフランスからのゴリアット、英国アイルランドからのオーギュストロダン、ドイツからのファンタスティックムーン、以上3頭が参戦しましたが、結果は順に6、8、11着と海外馬はどれも着順掲示板(5着まで掲載)に馬番が灯ることがありませんでした。

 思い起こせば今から43年前、日本で初めて国際的なレースが開催されるという鳴り物入りで始まった、このジャパンカップ。1981年に開催された第1回大会には15頭中7頭の海外馬が参戦、日本勢は当時日本最強と謳われていたモンテプリンス(2番人気)、ホウヨウボーイ(3番人気)らが迎え撃ちますが、結果は惨敗、4番人気だったゴールドスペンサーが5着に入るのが精一杯でした。

「ニッポンは完全に敗れました」と悔しさがにじむフジテレビ盛山アナの実況からは当時のむなしさが伝わって来ます。

 このレースでは1着馬メアジードーツからフロストキング、ザベリワン、ペティテートと4着までが米国・カナダの馬で占められましたが、これらの馬が現地では二流馬にすぎないという情報も広がり、今後さらに競馬の本場である欧州からの海外馬が加われば、海外勢にはとても太刀打ちできない、ジャパンカップでの日本馬優勝の夢はかなり先のことになるだろう、といった悲観論がファンの間に浸透していったことを覚えています。

 翌1982年も4着までが外国馬、翌々年の1983年も5着までに入った日本馬はキョウエイプロミスの1頭のみ。同馬は2着入着の頑張りを見せましたが、レース後に靱帯断裂が判明し引退を余儀なくされました。3年目にしてようやく日本馬最高の2着を死守した同馬の代償は想像以上に大きかったのです。