歴史上には様々なリーダー(指導者)が登場してきました。その
日本三代悪女
源頼朝の妻・北条政子は、日野富子や淀殿と並んで「日本三代悪女」と呼ばれることもあります。その要因の1つとしては、彼女の「強い嫉妬心」を挙げる人もいます。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも描かれた逸話ですので、ご存知の方も多いかもしれませんが、それは次のような話です。
寿永元年(1182)頃、源頼朝には、愛妾がいました。亀の前(良橋太郎入道の息女)という女性です。頼朝は、当初、亀の前を自分の近くに置いておくのではなく「遠境」(鎌倉外)の家臣の館に囲っていました。その理由を、外聞を憚ったと『吾妻鏡』(鎌倉時代後期の歴史書)には書いています。世間の噂になり、愛妾がいることがバレて、恥ずかしいというよりも、妻・政子に愛妾の存在が発覚することを恐れたためと考えられます。
亀の前が家臣(小中太光家)の邸にいることは、『吾妻鏡』の寿永元年6月1日条に記されているのですが、その翌月(7月)14日条には、頼朝の「色事未遂」とも呼ぶべき、話が記載されているのです。正室の政子、愛妾の亀の前がいながら、頼朝は、新田義重の娘に「艶書」(恋文)を送っていたというのです。
しかも、義重の娘は、頼朝の兄・源義平の妻(後家)でありました(義平は、1160年、平家により捕えられ、都で斬首)。頼朝は家臣の伏見広綱に命じて、義重の娘にラブレターを密かに贈っていたのです。が、義重の娘から色良い返事はありません。それでも、頼朝は諦めきれず、ついに、義重に直接、「そなたの娘が欲しい」と打ち明けます。義重は色々と考えた挙句、娘を頼朝にやることを拒否するのです。
その理由は頼朝「御台所」(政子)の「後聞を憚り」というものでした。義重は、自分の娘を頼朝に差し出した場合、政子から、自分や娘が酷い仕打ちを受けることを想像したのでしょう。義重は政子の気質というものをある程度は知っていたはずです。よって「賢明」な判断ができたのでした。彼は、娘を師六郎という者に嫁がせてしまいます。
そうすれば、さすがに頼朝も諦めるだろうと考えたのです。確かに、頼朝は義重の娘を諦めたのですが、今回のこともあり、義重に不快感を持つことになったようです。その頃、政子は妊娠中で、同年8月12日に、男子を出産しています。当時は一夫多妻が普通ではありますが、正室の妊娠中に他の女性を口説こうとする頼朝に「何やっているんだよ」とツッコミを入れた現代人(読者)も多いでしょう。