カツラギエースからシンボリルドルフへ
生涯成績22戦10勝と名馬と称するには特筆するほどの数字でないことから「歴代名馬列伝」や「最強馬ベスト100」などではなかなか見つけにくいカツラギですが(「未来に語り継ぎたい名馬BEST100」だと82位)、日本馬が勝てなかったジャパンカップに初の勝利をもたらし、1歳下の三冠馬(当時)シンボリルドルフ(同順位7位)に初の黒星をつけ、同年齢の四冠馬ミスターシービー(同順位23位)との対決も2勝2敗と互角。こうしたすばらしい成績を残しているだけでも、もう少し高く評価されていいのかなと思うのですが。
評価と人気度が低い理由の一つには、数え4歳時の三冠クラシックレースの成績が11着(皐月賞)、6着(ダービー)、20着(菊花賞)とまったく振るわず、このときの負け方の印象が競馬ファンや関係者の脳裏に残っているからかもしれません。
確かにジャパンカップには優勝しましたが、それ以外のG1勝利といえば、JRAがグレード制を導入した1984年にG1レースに指定されたばかりの宝塚記念に勝っただけでした。それ以前の敗戦時の悪い印象をファンの頭から払拭するにはジャパンカップの勝利だけではまだ足りないということなのでしょう。
ジャパンカップでカツラギに足元をすくわれ、日本優勝馬第1号の名誉に手が届かなかったシンボリルドルフですが、カツラギエースが優勝したジャパンカップのひと月後に行われた有馬記念で1歳上のカツラギに雪辱、2着を死守したカツラギに2馬身差をつけ、「どうです、先輩!」という顔つきでゴールを駆け抜けたように私には思えました。
シンボリルドルフのファンだった私は、ジャパンカップでの無念さを払拭するが如く溜飲を下げましたが、でも2着になったカツラギのたてがみからルドルフへと爽やかな風がなびいているようにも感じ、ルドルフとカツラギの両雄に「絆」のようなものを感じたものです。このレースを最後にカツラギは引退していきました。
その翌年、1985年の第5回ジャパンカップはシンボリルドルフが優勝します。しかし、次に日本馬が優勝するまで再び7年間という空白がありました。1992年の第12回大会で7年ぶりに勝利を奪回したのがトウカイテイオー。シンボリルドルフの初年度産駒でした。
ジャパンカップにおける80年代後半からの空白の7年間はまだまだ日本馬が世界レベルに達していないことを痛感させる日々でした。こうした時代に初めて日本馬として国際レースに優勝したカツラギエースの輝きは色褪せるものではなく、名脇役、されど主役もこなす名馬でもあり、と私は思っています。
(編集協力:春燈社 小西眞由美)