セ・リーグでも1965年、国鉄がサンケイ、さらにはヤクルトに身売りした。また大洋もTBSが出資するなどして横浜大洋と名乗るようになった。しかしこの2球団以外のオーナー企業は変わらなかった。さらに親会社のない広島は、1968年に東洋工業(現在のマツダ)がスポンサーになり広島東洋カープとなった。

 1990年代初頭の時点で、1950年の2リーグ分立時と同じ親会社だったのは、セは巨人、阪神、中日、広島と4球団あったのに対し、パ・リーグは近鉄バファローズだけだった。

 観客動員は、1985年でいえば、セ・リーグは1141万人だったがパはその4割強の473万人に過ぎなかった。

 こうしてセ・リーグの圧倒的優位の下、リーグ内での戦力差は以前ほどではなくなったにせよ、1990年代に入っても日本球界における「巨人一強」の体制は相変わらず続いていた。

 しかし、「変革の波」は予想外のところから襲ってきた。

 1つは「日本人選手のMLB進出」だ。

野茂がこじ開けたメジャーへの道

 これまで、日本人選手では1964年に南海の村上雅則がマイナーリーグへの野球留学中に、サンフランシスコ・ジャイアンツに引き上げられ、メジャーの試合で投げたことがあったが、それ以外にはMLB進出はなかった。

 しかし近鉄のエースだった野茂英雄が海外への移籍を要望。球団はこれを拒絶したが、野茂は1995年、もし日本に復帰する場合は近鉄以外とは契約できないという「任意引退」処分となってロサンゼルス・ドジャース移籍を断行。

1995年2月、入団発表でドジャースのユニホームを着て、オマリー会長(左)と握手する野茂英雄投手=ロサンゼルス市内のホテル(写真:共同通信社)
拡大画像表示

 すると移籍1年目にオールスター戦で先発し最多奪三振、新人王。独特の「トルネード投法」が旋風を巻き起こし「野茂マニア」と呼ばれる熱狂的なファンがついた。

 野茂の成功を皮切りに、1997年にはロッテのエース伊良部秀樹、98年にはヤクルトのエース吉井理人、2000年には横浜大洋のリリーフエース、佐々木主浩と、日本プロ野球を代表する投手たちが次々と海を渡っていった。