もう一つ、1970年代までは、草創期に正力松太郎が声をかけて、プロ野球に参入した阪神、中日という老舗球団が巨人に次ぐ地位にあり、1950年の2リーグ分立時にセ・リーグに参加した広島、国鉄(ヤクルト)、大洋(横浜大洋)は、下位に甘んじていた。また大洋を除いてリーグ優勝もなかった。

 しかし1970年代に広島、ヤクルトが初優勝して以降は、この2チームが急速に台頭し巨人の地位を脅かすまでになっている。

 その意味では、戦力面から見れば、この40年の間に「リーグの均衡」が進んだと言っても良いだろう。

1981年7月、オールスター戦にファン投票で選ばれた巨人の人気選手。(左から)松本匡史、原辰徳、西本聖(写真:共同通信社)
拡大画像表示

巨人一強の恩恵にも与れないパの惨状

 一方でパ・リーグは「巨人一強」「セ・リーグ優勢」の体制が固まるとともに、悲惨な状況になっていく。

 パ・リーグはセに対抗して観客動員を増やすべく、1956年には試合数を150試合に増加させたが観客は増えず1年で終わる。また1954年には新球団高橋ユニオンズを参入させたが、これもうまくいかず1957年に大映スターズと合併し、大映ユニオンズになる。その大映も存続できなくなり翌1958年に毎日オリオンズと合併して大毎オリオンズとなる。さらに大映も毎日も撤退し、1969年にはロッテオリオンズになる。

 1950年代後半から巨人との日本シリーズで野球ファンを沸かせた西鉄ライオンズは、1970年の「黒い霧事件」で凋落、太平洋クラブ、クラウンライターと名前を変えたのちに1978年、西武グループに買収され西武ライオンズとなる。本拠地は福岡から埼玉県所沢に移転。九州のライオンズファンは『甦れ! 俺の西鉄ライオンズ』というレコードを出して「ライオンズを返せ」と連呼したが後の祭りだった。

 映画会社の東映が親会社だった東映フライヤーズも1973年日拓ホームに身売りして日拓ホームフライヤーズに、さらに翌年には日本ハムに身売りして日本ハムファイターズになった。

 さらに1988年10月、70年代まで巨人と覇を競っていた南海ホークスがダイエーに身売りされ、大阪から九州への移転が決まる。

 筆者は発表があった直後に大阪球場で南海-阪急戦を観戦したが、阪急の応援団長が「ホークス、さいならー!」と大声で揶揄したのを思い出す。しかしその翌日、阪急もオリエントリース(のちオリックス)への身売りが決まるのだ。

 時はバブルの絶頂期、新しい企業が台頭し、プロ野球を「宣伝材料」にして知名度アップを図ろうとしたのだ。