悲惨な英国のがん治療の実態

 化学療法を受けている英国人の姿をより現実に即して描いたのは、英タイムズ紙による今年6月の動画だ*7

*7‘100 days in hell’ for cancer patients on record NHS waiting lists(THE TIMES)

 昨今、英国では一般的に市民が利用する公的な医療制度(NHS)の深刻な医療サービスの低下により、がんの治療待ちの時間が史上最長となっている。今年2月の調査報告ではイングランドにおいて、がんの疑いから62日以内に治療を開始できた人の割合が64.1%とされている。62日というのはあくまでも政府の指定する目標であり、その期間に治療が確約されているというものではない*8

*8Cancer waiting times in 2023 worst on record in England(BBC)

 筆者は昨年英国でがんの疑いを指摘されたが、かかりつけ医に連絡してから専門医の検査まで、少なくとも1カ月半ほどかかる見込みだった。それでも早い方だが、念の為日本に帰国して診察を受け、ことなきを得た。日本で英国と同様の検査までに要した日数は、わずか3日だった。

 タイムズが取材したのは、母親ががんで亡くなり、自身にもその疑いもあるのではと診断を求め「緊急」事例と指定されたにもかかわらず、治療開始までに100日以上もかかった38歳の男性である。この男性も、キャサリン妃のように化学療法を受けている。

 男性は、何度も懸念を示したにもかかわらず「がんになるには若すぎる」などと医師に一蹴され、診断が遅れに遅れたと話している。2022年秋、ステージ4の治療不可能な大腸がんと診断された。取材に「誰も急いではくれないことが、信じられない」と語った。

「希望を抱くのは危険なこと。もう失望したくはない」と、悲壮な胸の内を語っている。化学療法を受ける前夜は、いつも不安で眠れないのだともいう。

 そこには、美しくセピア色に染められた治療後の希望など、微塵も見られない。がんに苦しむ多くの一般の英市民が、こうした悲惨な状況に陥っている。

 キャサリン妃の今回の動画が、国民とのつながりを模索する新たな形の「家族映画」であったとすれば、一般市民の感覚からかけ離れた「作られすぎ」な演出だった感は否めない。王室広報はこうした声にも真摯に耳を傾け、国民とのつながり方を真剣に再考すべきではないだろうか。

楠 佳那子(くすのき・かなこ)
フリー・テレビディレクター。東京出身、旧西ベルリン育ち。いまだに東西国境検問所「チェックポイント・チャーリー」での車両検査の記憶が残る。国際基督教大学在学中より米CNN東京支局でのインターンを経て、テレビ制作の現場に携わる。国際映像通信社・英WTN、米ABCニュース東京支局員、英国放送協会・BBC東京支局プロデューサーなどを経て、英シェフィールド大学・大学院新聞ジャーナリズム学科修了後の2006年からテレビ東京・ロンドン支局ディレクター兼レポーターとして、主に「ワールドビジネスサテライト」の企画を欧州地域などで担当。2013年からフリーに。