なぜか? それは判決で「原爆投下は国際法違反」とし、国内外で高く評価されたものの、原告の請求を棄却したことに忸怩たる思いがあったからではないか。

東京・目黒の高層マンションのベランダで草木を愛でる三淵嘉子さん(1982年6月)。三淵さんはこの2年後に亡くなった(写真:共同通信社)
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判決を下す裁判官もきっと辛かったはず

 嘉子さんは1938年に高等試験に合格した際、『法律新聞』の取材に対し「不幸な方々の御相談相手として少しでも御力になりたいと思っております」と答えている。

 裁判官を退官する間際の1979年に母校・明治大に招かれて講演を行った際には、学生たちに向かって「私は、皆様方にエリート意識など持って欲しくないのです」と訴えた。弱者の側に立ち続けていた人なのだ。ところが、原爆裁判では弱者である原告たちの訴えを退けた。辛かったに違いない。

 原告の1人は原爆投下時に47歳。自営業を営んでいた。原爆によって運命は暗転し、4歳から16歳までの子供5人が爆死してしまう。妻とほかの子供も傷つき、本人も肝臓と腎臓に障がいを負い、働けなくなってしまう。腹から背中にかけてはケロイドがあり、それが暖かくなると化膿した。生活は実姉から僅かな仕送りで賄っていた。それでも国に請求した30万円の賠償金が認められなかった。

 原告側勝訴とならなかった最大の理由は、サンフランシスコ講和条約(1952年発効)で日本が米国への賠償請求権を放棄したから。そもそも最初から門前払いにしてしまうという選択肢もあったが、嘉子さんたちはそうしなかった。

 原告敗訴だったものの、判決では日米両国を激烈なまでに批判した。

「広島、長崎両市に対する原子爆弾による爆撃は、無防守都市に対する無差別爆撃として、当時の国際法からみて違法な戦闘行為である」「(日本)国家は自らの責任において開始した戦争により、国民の多くの人を死に導き、傷害を負わせ、不安な生活に追い込んだ」

 判決時点で終戦から18年が過ぎ、高度成長期に入っていながら、被爆者救済が行われていないことも判決は批判した。「政治の貧困を嘆かずにはおられない」と斬り捨てた。