『奇譚クラブ』を仕掛けた緊縛好きの編集者とは

河原:1946年頃から「カストリ雑誌」というものが出始めました。これはエロ本と分類してよいと思います。とはいえ、今から見るとソフトで、本格的にエロとも言えないぐらい内容ですが、ヌード写真やエロティックな挿絵が付いていました。

 一方で検閲を一切通さない「地下本」と呼ばれる違法の出版物もあり、これらにはダイレクトな性交の描写なども含まれていました。こちらはより現在のエロ本に近いものです。

『奇譚クラブ』は一般的なエロ本とは違って、ヌードや性交場面ではなく、着衣のまま縛られている女性、逆に女性に組み敷かれている男性のイラストや写真などを載せる雑誌でした。こうした文化を仕掛けていたのは、須磨利之という、緊縛が好きだった編集者です。

 こういったことに興味を持つ人々が、「これはただのエロ雑誌ではないぞ」ということで群がったのだと思います。

 須磨は、同性愛、異性装など、SMとは少し異なるセクシャリティに関する肯定的な記事もかなり載せました。当時、これらのセクシャリティを持つ人々同士に仲間意識のようなものがあったかどうかは判然としません。しかし、ともかくも須磨を中心として『奇譚クラブ』に多くの当事者が集い、投稿作家として活躍していくようになります。

『風俗クラブ』(著者提供)『風俗クラブ』(著者提供)
『風俗草紙』の装丁(著者提供)『風俗草紙』の装丁(著者提供)

──須磨利之と『奇譚クラブ』創刊者の吉田稔は、最初どんな意図を持って『奇譚クラブ』を始めたのですか?

河原:最初は、単純にお金を稼ぎたかったのだと思います。『奇譚クラブ』は1947年に創刊されていますが、この頃は皆生きることに必死でした。「紙が入手できるなら、そのまま紙を売るより何か印刷して出版したほうが儲かる」という感覚だったと思います。

 カストリ雑誌もそうでしたが、それまで出版業に携わっていなかった人たちが、こうしたコンテンツを通して参入したと言われています。アイデア勝負で、皆がいろんなものを作っていました。

 ところが、次第に政府がこうした雑誌を弾圧するようになります。「刑法175条」という猥褻な表現を取り締まる法が使われました。

 SMは服を着ていてもいいし、挿入行為も必ずしも必要ではありません。『奇譚クラブ』掲載のグラビアや挿絵は服も着ているし、露骨な性交などは描かれていませんので、刑法175条による摘発対象とはならないはずですが、警察は一緒くたにして取り締まりました。

 弾圧は52年頃から激しくなり、55年にピークを迎えましたが、弾圧されるほど「意地でも出してやろう」とむしろやる気になったようです。『奇譚クラブ』や『あまとりあ』などの編集後記を見ると、弾圧を受けて腹がたち、「絶対に負けないで出版し続ける」という気持ちになっていく様子がうかがえます。

 1975年まで『奇譚クラブ』は続きましたが、ほとんどの期間ずっと弾圧され続けていたので、半ば編集者の意地で維持されていたといってもよいくらいです。