8月7日に開幕した全国高校野球選手権。全国屈指の常連校も多い中、5年ぶりに夏の甲子園出場を決めたのが、埼玉代表の花咲徳栄(はなさきとくはる)だ。
2017年夏、投打がかみ合った野球で悲願の全国制覇を成し遂げた花咲徳栄の岩井隆監督。就任17年目、春夏合わせて9度目の甲子園で掴んだ日本一だった。就任1年目の2001年夏にすぐに埼玉を制し、甲子園でも初勝利。さらに2003年センバツではベスト8にまで勝ち進み、花咲徳栄の名を全国に広めた。しかし、次に甲子園に出るまでに10年の時間を要した。10年ぶりに出た甲子園では智辯和歌山に1対11の大敗。数々の敗戦を糧に指導法をアップデートしてきた岩井監督の「失敗学」に迫った。
(*)本稿は『甲子園優勝監督の失敗学』(大利実著/KADOKAWA)の一部を抜粋したものです。
2001年夏、「徹底力」で掴んだ初めての甲子園
「面白いテーマを持ってきましたね。おれなんて、挫折と後悔の繰り返しだから」
ネット裏にある監督室。事前に書面で伝えていた取材の趣旨を改めて説明した。人の失敗を聞き出すとなると、少々荷が重い。指導者によっては、語りたくないこともあるだろう。でも、この一言でいい話が聞ける予感がした。
桐光学園から東北福祉大を経て、花咲徳栄に赴任したのが1992年のこと。高校時代の恩師・稲垣人司監督が花咲徳栄の指揮を執っていたため、その背中を追ってコーチに就いた。「投手育成」に長けた稲垣監督の理論を間近で学び、勉強する日々。当時の花咲徳栄は創部10年目と歴史が浅く、恩師とともにチームを初の甲子園に導くことだけを考えていた。ところが、2000年10月、練習試合中に稲垣監督が心筋梗塞で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
バトンを引き継いだのが岩井監督だった。31歳。私学の監督としては圧倒的に若い。恩師が築いた花咲徳栄の野球部をさらに強くし、甲子園に出場できるチームを作り上げる。選手とともに戦い、汗をかき、厳しい練習を重ねた結果、1年目の夏に埼玉大会を勝ち抜き、悲願の甲子園初出場。根元俊一主将(ロッテ内野守備兼走塁コーチ)の手に優勝旗が渡った。さらに甲子園では宇部商に12対0と大勝し、初勝利まで挙げた。
2002年秋には関東大会ベスト4で翌年のセンバツ切符を掴むと、甲子園では秀岳館、東北を1点差で下して、ベスト8入り。準々決勝では東洋大姫路と延長15回引き分け再試合の末、サヨナラで敗れた。当時のエース福本真史氏が、現在は花咲徳栄のコーチを務めている。
就任2年半で甲子園に2度出場し、春夏計3勝。新監督の船出としては十分すぎる結果と言える。
「監督になって一番力を入れたのは、『徹底』でした。監督の指示、ベンチの指示を、選手がどれだけ徹底できるか。そこに重きを置いていく中で、1年目の夏に稲垣さんの遺産もあってすぐに勝っちゃって、3年目にセンバツでベスト8。『こういうふうにして、こうやっていけば絶対に勝てる』ということを、ものすごく植え付けていて、生徒も『岩井先生の言った通りにやれば勝てる』というのがキャッチフレーズのようになっていた。毎回ちょっと結果が出るたびに、『おれはもうこのやり方でずっと通せるんだ。間違っていないんだ』と勘違いする自分もいました」
監督として最初の成功体験だった。
2003年にセンバツに出場したときに、今も忘れられない選手の言葉がある。キャプテンの川原健太が記者から「どの学校と対戦したいですか?」と聞かれた際に、こう答えたという。
「秋の関東大会で負けた横浜高校とやりたいです(1対6で敗戦)。同じ相手に2度負けると、岩井先生の野球が負けたことになるので」
岩井監督の野球を信じ、心酔していた。監督が発するすべての言葉を受け入れ、「右を向け!」と言ったら右を向く。指揮官の考えが絶対であり、すべてだった。
「それに酔っていましたよね。能力的には弱いチームなんだけど、『徹底する力さえあれば勝てる』と自分自身も信じていた。すごく単細胞。でも、このやり方では夏に勝てないことに、その後に気付き始めるわけです。2010年に久しぶりにセンバツに出ても、上まで狙っていたのに2回戦で敦賀気比に負け。このあたりから、指導法を考えるようになりました」