スターリンの悲劇はここから始まる。倒れたのを発見されてからも医師も呼ばれず、失禁した尿で全身を濡らしながら倒れてから12時間以上放置されたのである。
医師を呼ばなかったのは連絡を受けた重臣たちがあえて放置したからともいわれている。スターリンが医者嫌いだったからである。
彼は自身に引退勧告した医師を拷問にかけるくらいの医師嫌いとして知られていた。重臣たちにしてみれば、「スターリンの性格を考えると万が一、医師を呼んでいる最中に回復でもしてしまったら、自分たちはどのような罰を受けるかわからない」と考えるのはもっともだろう。
とはいえ、明らかな病人をほうっておくこともできない。協議に協議を重ね、結局、医師を呼ぶことになったが、ここにも悲劇があった。
優秀な医師は医師嫌いのスターリンによってみんな牢獄送りにさせられていたのでまともな医師が見当たらなかった。そもそも、呼んだところで、医者もスターリンが怖いから脈をはかるのもままならなかった。有効な治療策もなく、スターリンは3月5日になくなる。
自らの恐怖政治が仇に
娘のスベトラーナはこのときの顛末をこう語っている。
父が臥っていた大広間には、大勢の人がつめかけていた。この患者を診るのはこれがはじめてという医師たちが(多年、父を診ていたアカデミー会員V・N・ヴィノグラドフは投獄されていた)、てんてこ舞いのさわぎを演じていた。後頭部と首にひる*がつけられ、心電図がとられ、肺のレントゲン透視が行われ、看護婦はひっきりなしに何かの注射を打ち、一人の医師は手も休めずに病状経過をカルテに書きこんでいた。必要な手がすべて打たれていた。だれもが、もはや救いえない生命を救おうとして、躍起になっていた。(『スベトラーナ回想録』)
* かつてヒルは医療用に使われていた
いかに混乱していたかがわかるが、重臣たちの対応のドタバタはいくつもの憶測を呼んだ。政治警察の長官ベリヤが看護婦に毒薬を注射させたなど暗殺説もささやかれた。実際、スベトラーナはベリヤが何度もスターリンの病床をのぞいていたと振り返っている。ただ、こうした憶測を呼んだのもスターリンの恐怖政治の産物だろう。自分の恐怖政治によって適切な医療すら遠ざけてしまう結末を招いたのだ。
人は死に方は選べない。だが、巨大な権力を振り回さず、引き際を意識していれば、違った死に方があったかもしれない。