逃亡生活から一転、一橋慶喜に仕官

 1840年、現在の埼玉県深谷市に生まれる。生家は農業のほか、藍染め原料の加工・販売を営んでいた。それらの染め物材料を江戸ではなく織物産地に直接卸すことで、村内で存在感を高めた。販路を自ら発掘して、ビジネスチャンスを拡大したところに、渋沢の古いしきたりや序列を打ち破る気風の原点を見る専門家もいる。

 幼少時代から四書五経の手ほどきを受けた。利根川で江戸と直結する地の利を生かし、頻繁に江戸に出て、高い教養や剣術を身につけた。

 渋沢は後に幕臣として取り立てられたが、元々は攘夷の志を持っていた。江戸に出て、長州の志士と倒幕を誓うも決行直前に中止し、京に逃亡。活動に行き詰まり、江戸で知己を得ていた一橋慶喜(後の十五代将軍徳川慶喜)の家臣の推挙で、慶喜に仕官する。

 これにより、武士身分を獲得し、幕府の探索から逃れることに成功するのだから、かなり運のよい人生でもある。

1866年頃、幕臣時代の渋沢栄一(Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
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 後の「日本資本主義の父」にとって大きな経験となったのが慶喜の異母弟である昭武のパリ万国博への派遣随行だ。1867年から庶務・会計係として約2年間パリに滞在した。

 この頃、ヨーロッパに渡った者は政治体制の違いに大きな影響を受け、「日本は遅れてる!」と危機意識は持ったが、渋沢はもっぱら銀行・鉄鋼業など近代産業の実務に関心を示した。ちょっと地味であるが、家業で商売に親しんでいたことに加え、幕末のゴタゴタで政治と距離を置きたかったともいわれている。