最後の最後まで社会事業に献身
実業界からの引退後は社会活動や民間外交に従事した。現役時から、社会事業や教育などへの積極支援を惜しまなかったが専念することになった。今でいうならば華麗なるキャリアチェンジともいえるかもしれないが、根底にあるのは公益の追求で全く変わっていない。渋沢が関わった福祉機関・教育機関は、立ち上げた企業数を上回る約600と言われている。
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象徴的な取り組みは社会福祉事業での養育院の運営だ。1872年に東京会議所が発足し、渋沢はこの組織の取締に1874年に就任した。養育院は窮民対策事業としてこの東京会議所の一事業として同時に始まった。
渋沢は、死ぬまで東京養育院の院長をつとめたが「お飾り院長」ではなかったところが、渋沢のえらいところだ。毎月足を運び孤児や非行少年たちと話を交わした。
渋沢は高齢になっても多忙を極めた。「昔は夜中の1時、2時まで普通に働けたが、最近はできない。月に1、2回が限度」と79歳の頃に嘆いている。
七十九歳の今日では、私に其れができぬのだ。然し昨今でも仕事が停滞して来ると、一ケ月に一度や二度は猶且二時頃まで起きて仕事し、停滞した庶務を片付けることにする。現に、先月(大正七年四月)は余りに忙しくつて庶務の停滞が甚しかつたもんだから、一夜午前二時まで夜深しをして漸く之を片付けたほどだ。然しこれは月に一二回ならできるが、隔日続けてやるわけに行かぬ。ここらが私の老いた証拠だらうと思つてる(『実験論語処世談』)
ちなみに朝は6時には起きるというから、すさまじいバイタリティーだ。もともと体力に恵まれていたのだろうが、彼はあらゆるところで「忙しくしていると老いない」と話している。実際、60歳以降に4度も渡米しており、最後の渡米は81歳。令和の今でも「お元気ですね」といいたくなるが、100年以上前の話である。
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渋沢は身内に「自分は経営者としては二流だ」と漏らしていた。100年以上経っても運営されている会社をいくつも立ち上げながらなぜ「二流」なのか。
一流の経営者には利益を追求する強い執着心が必要だが、渋沢は個人の利益より、国のインフラ整備をあえて優先した。インフラを支える会社の仕組みができあがったところで、身を退き、その後は社会が回る仕組み作りに尽力した。公益の人を生涯貫いた。それが「二流」に込めた意味だろう。今の日本に必要なのはそんな「二流」の経営者ではないだろうか。
【参考文献】
渋沢栄一記念財団『デジタル版 実験論語処世談』
渋沢栄一記念財団『デジタル版 渋沢栄一伝記資料』
渋沢栄一『処世の大道』近代経済人文庫