次々と会社設立、しかし「財閥」は作らず

 ここで、薩摩藩や長州藩出身の大物たちとの人脈を得る。これが後に政府の許認可を取り付け、大規模会社を立て続けに設立する際に大きく役立つことになるのだが、政争に巻き込まれ、下野する。その理由も渋沢らしい。

 渋沢は収入と支出管理のため、省ごとに経費に枠を設けようとしたが、これを政府のトップであった大久保利通が認めなかった。軍拡路線をひた走り、軍備予算増額を主張する大久保と真っ正面から衝突し、渋沢は辞表を提出する。

 下野後、渋沢は政府の役人として民間に設立を働きかけていた第一国立銀行を1873年に設立する。これは日本初の銀行で、現在のみずほ銀行だ。

 その後、銀行の機能をいかし、あらゆる業種の起業に携わる。東京証券取引所、日本赤十字社、東京ガス、帝国ホテル、王子製紙、東急電鉄、キリンビール、東洋紡など日本の近代化の礎となった数々の大企業を設立し、その数は500近い。鉄道やガスなど近代経済のインフラといえる業種が大半で、渋沢が立ち上げた企業があるから、今でも多くの人が日常生活を営めているのだ。

 そう言われてもあまり恩恵を感じられない人も多いだろうが、それこそが渋沢の凄さだ。

 儲けを自らの懐に収めて、さらなる儲けを企図しなかったからだ。日本資本主義の父と呼ばれながらも資本主義の仕組みを使って自らの富をひたすら追求しなかった。それは三井や三菱と違って「渋沢財閥」が今の世にないことからもわかるだろう。常に後進に道を譲ることを念頭に会社を経営し、その仕組みづくりを常に意識していた。自らの「引退」を前提に組織を築いた。