パリ滞在中に「資産運用」実践

 滞在中、渋沢の生死に関わる大事件が起きる。派遣された年の秋に大政奉還で慶喜が政権を天皇に返上してしまう。そして、王政復古の大号令が出て、幕府そのものが消滅する。

 一同が異国の地で狼狽したのは想像に難くない。今と違ってインターネットもない時代だから、あれこれ情報が飛び交い、妄想も膨らませたはずだ。現実的な問題として送金も絶えてしまい、頭をかかえた渋沢を救ったのが、現地パリの銀行の頭取だった。「運用すれば?」と助言され、渋沢はここで投資や配当の概念を知る。

 渋沢は残りの金を運用することで、帰国の費用を得る。「すばらしきかな資本主義」と感涙したかどうかは知らないが、当時、渋沢はカネの使い方をすべて記帳しており、公債や鉄道債券を購入、利潤を得たりしていたことがわかっている。

慶応3年(1867年)に撮影された洋装の渋沢栄一(Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)
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「資本主義の父」がパリで窮地に陥り、学んだくらいなので、当時、このような発想をする人は皆無だった。渋沢が日本に帰ったら、こうした金融システムをつくりたいと考えるのは自然のことだった。

 逆臣だった渋沢だが、いつの時代も異才は放っておかれない。1868年末に帰国すると、旧幕臣にもかかわらず、「西欧の経済に明るい」と新政府の目にとまり、現在の財務省の役人になる。