苦節52年の名物馬主に初のG1タイトルを献上
日本の競馬がグレード制を導入したのが今から40年前の1984年でした。
著名芸能人馬主の中で最初にG1レースをものにしたのは、2007年の「ヴィクトリアマイル」に勝利したコイウタの馬主・前川清ですが、それ以前から長らく馬主として競馬の世界と接していたにもかかわらず、G1タイトルとは無縁だった大物歌手がいました。北島三郎(馬主名義・大野商事)です。
北島が演歌歌手としてデビューしたのは1962年、26歳のときです。馬主デビューが翌63年なので、すでに60年以上にわたり競馬界と仲睦まじい関係を築いていることになります。
最初の愛馬に名付けた馬名が「リュウ」。息子さんの名前だったそうですが、その後、北島の父から「愛馬がわかる馬名」を望まれ、本名の「大野」にちなんで「オオノ○○」という馬名へ移行、80年代後半からは北島三郎の「北」と「三」から、「キタサン○○」と命名するようになりました。
なかには持ち歌『緋牡丹博徒』からキタサンヒボタン(G3「ファンタジーステークス」の勝ち馬)と名付けられた馬もいました。
おそらく現在までに550頭以上の馬を保有していたことと思いますが、あいにく「キタサン○○」という馬名の馬は中央競馬の大舞台ではあまり走らないというイメージが長らく付いて回ります。されど、そのすべてを払拭してくれたのが「キタサンブラック」の登場でした。
キタサンブラックは500キロを超える堂々たる馬体で、2015年1月の新馬戦デビューから3連勝を飾ります。ただし、キタサン逆効果でしょうか、レース前の人気順は3戦を通じて3→9→5と、けっして高いものではありませんでした。
4戦目のクラシック第1弾・皐月賞は残念ながら3着と勝ちきれず、5戦目のダービーに至っては14着と惨敗。勝ったドゥラメンテからは10数馬身も離されての入着でした。
されど、ひと夏超えると馬自身の成長、および調教師・清水久詞のスパルタ教育もあってか、心身ともに力強さを身につけます。同年菊花賞で自身初のG1制覇をなしとげるとともに、苦節52年の馬主・北島に初めてのG1タイトルをもたらしたのです。